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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

山田三良(1869~1965)

第10代日本学士院院長。中山法華経寺聖教殿の建築に身命を賭した。

東京神田にある学士会館は、大正ロマン漂う粋な建物だ。会議室、フロント、食堂、碁会所、そしてソファーが並ぶ談話室、それぞれに趣がある。その談話室の入口に一基の胸像が鎮座し、土台には人物の紹介と学士会館建設への切績が綴られている。

日本学士院第10代院長(初代福沢諭吉、第二代西周……)山田三良博士である。山田博士は日本における国際法の先駆者であり、東京帝国大学法学部長・京城大学総長・日仏会館理事長・貴族院議員等の重職を歴任、法学会・国際交流にと八面六臂の活躍をする一方、法華信仰、殊に中山聖教殿建築に身命を賭した人物である。

山田博士は明治2年(1869)11月8日、奈良県高市郡越智村の村長山田平三郎の三男として生を享ける。生来の勉学好きで上京し、早稲田専門学校へ入学、その後帝国大学法科大学(東京帝国大学法学部の前身)、さらに大学院へと進む。そして、30歳に時から3年にわたり欧州へ留学。ドイツのハイデルベルヒ大学、フランスのパリ大学で国際法を専攻し、その権威から直接の指導を受けたのである。帰国後、直ちに法科大学の教授として迎えられ、まさに順風満帆の人生であった。

しかし、ただ一つ欠けるものがあった。それは人生の伴侶がいまだいなかったことだ。案じる周囲を代表して上司である穂積教授は、ある才媛を紹介し縁談を進めたのであった。縁談はトントン拍子で進展、見合いから3ヵ月後の明治37年(1904)5月22日、星が岡茶寮で華燭の典が挙げられた。新婦となったのは、女子大学国文科2年に在学中の江川しげ子であった。実は妻しげ子の存在が、山田博士の後の人生に一大転機をもたらすこととなる。しげ子の実家江川家は、伊豆韮山で世襲代官を司った旧家であり、聖人在世時から法華信仰を脈々と伝えていた。祖文太郎左衛門担庵は幕末の名士、反射炉造営に携わり、日本のパン祖と仰がれ、坂本龍馬にも影響を与えた人物である。このような環境で法華信仰を篤くしたしげ子であった。

ある日、伊豆の江川邸を訪れた山田博士は、しげ子と屋根裏へと上がっていった。その時、

「あの柱に貼ってあるのはいったい何だ」

「あれですか。棟札ですわ」

「ほう、そうか。確かこの江川邸は鎌倉時代の建物で、一度も焼失したことがない不思議な館と聞いていたが、あの棟札はいったいだれが書いたのだ」

「はい、日蓮聖人の直筆と聞いておりますが……」

「ほう、それは大変尊いことだ。では、江川邸には聖人の書物もあるのか」

「はい。ご遺文や法華経がたくさんございます」

この日を境に山田博士は聖人のご遺文と法華経を精読するようになる。

しかし、それまでの博士は、自ら「文学や思想には冷淡」と語り、妻との性格の違いを

「あたかも木綿と絹布とが異なる如く、その素質や風格を異にし」

と述べているように、新婚のころはお互いに理解することが難しかったようだ。無理もない。幼いころから和歌や茶道、華道を嗜んだ旧家育ちの女性と、趣味を一切持たず勉学一筋の男と馬が合うはずがない。それを承知で結婚し、妻しげ子は次第に夫を法華経信仰の世界へと引き込んでいった。誠に妻の力は恐ろしい。さらに、本多日生師が主宰する天晴会へと山田博士を連れていった。

日蓮主義グループ天晴会の人々、法華経や日蓮聖人に関する仏教書と付き合ううちに、山田博士の信仰は深まり、法華信仰の在家指導者となる時が来る。大正3年(1914)4月28日、小林一郎教授(日蓮宗大学)・矢野茂氏(元大審院判事)と共に在家主導の法華信仰グループ法華会を設立。この法華会で、辰野金吾(工学博士、東京駅・日銀等を設計)・諸橋轍次(漢学者)・新村出(国語学者)・五島盛光(財界人)等、各界で煌星のごとく輝く著名人を法華信仰へと導くのであった。

法華会の信仰勧奨運動が、京都・大阪・長野・長崎・横浜の支部開設に及んだ大正11年(1922)の秋、ある事件が起きる。立正大学教授清水龍山師が中山法華経寺を訪れ、長びつに納められた聖人の御真筆と目録を照合するうち、『観心本尊抄副状』と『大黒天供養事』の2幅の紛失が発覚する。

中山法華経寺は聖人の有力檀越富木日常上人が自邸を法華寺としたことに始まる。日常上人は聖人滅後、『立正安国論』『歓心本尊抄』を始め数多くのご遺文を後代に伝えることを第一義とし、永仁5年(1297)、『常修院本尊導聖教事』という目録を作成、「置文」を書いて門下にその管理を厳命した。以来700余年、法華経寺はご遺文を挌護することを宗としてきた。そのご遺文が紛失したのだ、この報は瞬く間に宗門内外、そして法華会にも及んだ。現職貫首の失墜を狙った謀略という風聞もささやかれた。ご遺文紛失という不祥事に大いに憤り、逸早く対応策を訴えたのが山田博士であった。

「これは由々しき重大事。御真筆は日蓮聖人の御魂。書画や骨董とは違って金銭に替えることはできない。このようなことが再び起こってはならない」

法華会の月刊誌「法華」には毎号事件の顛末、恒久的な新宝藏建築への趣意書と勧募要項が掲載され、全国の会員に協力が要請された。

しかし、法華会だけで建築事業が遂行できるものでははい。宗門、法華経寺との合意と協力が必要であった。三者が合意するため山田博士はとにかく東奔西走した。山田博士のねばり強い説得と行動力により、三者は、合意し建築計画と予算書が見積られ設計担当者が決められた。構造学の内田祥三、寺院建築の伊東忠太、東洋古代建築の関野貞の三博士、当代随一の設計士ばかりである。そして、工費見積りは5万円であった。

大正12年(1923)9月1日南関東一円を巨大地震が襲い、首都東京は壊滅状態。このため建築事業は計画を改めざるを得なくなる。幸いなことに御真筆はすべて被災を免れ、紛失した2幅も震災前に発見された。そこで大震災も耐え意匠をさらに巧みにする設計となったため、当初の四倍の20万円の総工費見積りとなってしまった。大正12年末の勧募総額は4万円弱。博士は勧募の旅にさらに東奔西走しなければならなかった。

遂に大正15年(1926)3月28日に地鎮祭が行われ工事が開始される。延べ工事人員約2万人、総工費20万円、工期5年2ヵ月。インド宝塔形式、地盤より頂上まで22メートル、土壇周囲は朝鮮平島産の花崗岩。昭和6年(1931)5月3日、新緑薫る中山法華経寺で聖教殿落慶竣工式法要が厳修(ごんしゅう)された。

来賓約1千名参列のもと、伊藤日修貫首が導師を務め、博士は奉告文を朗読した。しかし、万感去来し、幾度も感涙でつまり参列者の多くも涙したという。総工費の半額を出費したのは法華会である。主な人物には加藤高明・五島昇・金原明善・加治時次郎・木内重四郎・小田柿拾次郎等がいる。

毎年、11月3日の「文化の日」に聖教殿で御真筆を拝観することができる。拝観するためには4個の鍵が揃わなければならない。その1個、第2の扉の鍵は法華会が所有する。この事実は山田博士の身命を賭しての新宝藏蔵築への寄与の証と解せよう。私たちは山田博士の努力によって御真筆が挌護された事実を忘れてはならない。