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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

土光敏夫(1896~1988)

食事はメザシに梅干…質素な経済界の大物は日本経済再建に尽力。

戦後の日本経済を動かした人物に、法華篤信(ほっけとくしん)の人がいる。
東芝の会長・経団連の会長を務め、昭和56年3月から中曽根元首相(当時は行政管理庁長官)から請われて臨時行政調査会会長の任を果たした土光敏夫氏である。

かつて、その生活ぶりがNHKで放映され、「メザシの土光」とか「求道者(ぐどうしゃ)土光」と評された。
「メザシの土光」と呼ばれたのには理由がある。
もちろん、土光さんは鰯(いわし)・メザシが好物であったが、そうせざるを得ない状況におかれたといった方が良いかも知れない。

経団連の会長をしているころ、年俸は数千万円あったという。しかしその多くは、母が設立した『橘学苑(たちばながくえん)』の運営に充(あ)てられた。
税金を支払うと、わずかなお金しか残らない。
そして好物ということもあって、安価で栄養豊かなメザシが食卓によく並んだ。

土光さんは岡山県御津郡(みつぐん)大野村(現岡山市)に、明治29年9月15日、父菊次郎と母登美(とみ)のもうけた2男3女の次男として生を享ける。

大野村は古い歴史を有した土地で、備前法華(びぜんほっけ)の中心地でもある。
土光家も代々その信仰を受け継いできた。
土光という姓は、法華経(ほけきょう)の浄土である「常寂光土(じょうじゃっこうど)」の"光土"を逆にしたという説もある。

近在の小学校を終え、岡山中学を受験するが失敗、本格的な受験勉強をしていなかったからだ。
中学は私立関西中学に入った。
上京し高校を受験するがまたもや失敗、小学校の代用教員をしながら猛勉強をする。
そして、大正6年に東京工業高等学校(現東京工業大学)機械科に優秀な成績で入学する。

機械、特にタービンに興味をもった土光さんは、大正9年に石川島造船所に入社。
2年後、将来を託されてスイスのエッシャーウィス社へ留学、欧州の最先端技術を学ぶ。
大正13年に帰国し、上司の娘・栗田直子と華燭(かしょく)の典(てん)をあげ、東京青山の高樹町に居を構えた。 昭和11年、石川島芝浦タービンが設立されて技術部長に抜擢され、19年に専務、21年には社長に就任した。

昭和25年、親会社である石川島重工業社長となるが、28年に造船疑獄が起こり、翌年には拘置を余儀なくされた。
しかし土光さんは拘留中も毎日端座して読書、その姿に看守は「求道者」の姿を見、畏敬の念を抱いたという。
処分保留のまま不起訴となった。

昭和35年、石川島重工業と播磨(はりま)造船所が合併し、石川島播磨重工業となり、土光は社長に就任した。 40年には業績不振の東京芝浦電気工業(現・東芝)の社長に迎えられ、会社の再建に尽力する。
この後も、東芝の会長・日本経済界の総本山経団連の会長を三度名誉会長を歴任し、臨調会会長として活躍、「臨調の土光」の名を世に轟(とどろ)かせた。

父菊次郎は、昭和15年9月20日に逝去、翌年、一周忌法要が高樹町の自宅で行われた。
清宴で母登美は突然、子女教育を手掛けると言い出した。
その時、登美は齢70。
家族は反対したが、登美は『国の滅びるは悪によらずしてその愚による』と子女教育の必要性を説き、『私が死んだ時のお香典を生きているうちに下さい』と知人宅を回り資金を集めた。

登美は熱心な法華信者であった。
父と共に昭和13年に上京した後、岡山の家を経王殿(きょうおうでん)としてお曼荼羅(まんだら)と祖師像(そしぞう)を奉安し、祈りの場として地域の人々に開放した。
月1回のお詣(まい)りには菩提寺(ぼだいじ)(日應寺)の住職に導師をお願いした。
母亡き後も、次女節子・3女美子は母の意志を継ぎ、毎月1回催される信行会(しんぎょうかい)には岡山まで出向いている。

登美は上京後も信仰を持(たも)ち、「まこと会」という日蓮主義の会に入った。
そこで教育者・白戸菊枝と邂逅(かいこう)し、白戸の多大な助力により横浜市鶴見区北寺尾に約1万坪の土地を手に入れた。
そしてそこに、昭和17年4月28日の立教開宗(りっきょうかいしゅう)の聖日、登美の思いの込もった女学校は『橘女学校』として開かれた。
その名は日蓮聖人(にちれんしょうにん)生家の紋"井桁(いげた)に橘"に由来する。

第1期の入学者は28名、まるで寺子屋のような状態であったという。
朝、登美の導師でお勤め(方便品(ほうべんぽん)・自我偈(じがげ))をし、大太鼓を叩いて唱題した。
教育方針は、成績第1主義ではなく、個性的な人格育成、自発的に学習する教育を目指した。
『正しきものは強くあれ』の登美の言を校訓に掲げ、自立した女性、平和社会を築く女性の輩出を願って歩み出した。

しかし、女学校を設立して3年後の昭和20年4月21日、登美は世寿73で他界する。
この時、土光さんは石川島芝浦タービンの専務であった。
激務のなか、母の意志・法華魂を継ぎ学校を経営、第4代校長も務めた。
母の熱き想いを結実させるために。

しかし、入学者は8人という時もあった。
近隣の畑で野菜や芋を作ったり、鶏を飼ってタマゴをとったりもした。
現在、高校・中学の他、付属幼稚園を併設し、600名を超える生徒数を有する学苑となっている。

土光さんの座右の銘は『苟(まこと)に日に新たに、日日に新たなり、又(また)日に新たなり(苟日新 日日新 又日新)』である。
日々新しい気持ちで、1日1日修養を積み、目的に向かって生きていく。
技術畑を歩んできた土光さんに最も相応しい言葉といえよう。

石川島・東芝・経団連の重役に就いていたころ、経済界の大物にもかかわらず、土光さんは自宅からJR鶴見駅まで歩き、電車に乗って会社へ通ったという。
毎朝、午前4時に起きて仏間でのお勤め、夜は感謝の読経(どきょう)。
休日はゴルフや釣りではなく庭いじりと畑仕事。
応接間にエアコンはなく、夏は扇風機、冬は石油ストーブ。
決して会社を私利私欲のために使わなかった。

その生活信条を知った人は『土光さんは"生きる日蓮聖人"だ』(昭和電線平賀潤三社長)と評した。
日蓮宗関係の人からの講演の依頼にも「ワシの南無妙法蓮華経は、自分だけのものだ。人に語り継ぐものでは決してない」と断るのが常であったという。
土光さんは僧侶に対し、次のような注文もつけている。

なぜ在家の仏教が盛んになるかといえば、そりゃ坊さんが商売になっちゃっているからだよ。
……第一、お釈迦さまだって、カネをもうけるなんて、説いちゃいないや。

誠に私たち僧侶にとって耳の痛い言葉であるが、僧侶に覚醒(かくせい)して欲しいとの思いが伝わってくる。

昭和63年8月4日、ミスター行革土光敏夫さんは世寿93をもって霊山往詣(りょうぜんおうけい)する。その年の春、縁あって墓所を古都鎌倉の名刹(めいさつ)・安国論寺(あんこくろんじ)(玉川覺祥住職)と決め、遺骨は尽七日忌法要の後、葬られた。
法名、安国院殿法覚顕正日敏大居士。

霊山から土光さん、利権のために働く政治家、会社ぐるみで偽りの食品を提供する今の世の有り様を見て、 『私利私欲は日本を滅ぼす』と嘆いていることだろう。