法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

双葉山(1912~1968)

力士。ハンディを背負いながら69連勝の偉業を成した大横綱。

イマダ モッケイニオヨバズ――。昭和11年(1936)の春場所7日目から14年の春場所3日目に至るまで、実に丸3年間負けたことのない昭和の大横綱双葉山が、4日目安芸ノ海に70連勝を阻まれたとき、心の師・安岡正篤に送った電文の一節である。「モッケイ」とは木鶏のことで、木彫りの鶏のように鍛え抜いた闘鶏は、敵と出会ってもその威徳によって相手が畏縮して逃げてしまうという。双葉山は「私はいまだその域に達していない」と述懐したのだ。双葉山は信仰の人であった。戦後、一時新興宗教を狂信したこともあったが、粛々と法華信仰を育みながら相撲道に生きた人である。

明治45(1912)年2月9日、周防灘に面した大分県の小さな農漁村・天津に穐吉定兵衛と美津枝のひとり息子定次として生を享ける。母は米俵を軽々と持ちあげるほどの怪力の持ち主であったという。その母は、定次10歳の時逝ってしまう。元々、穐吉家は浄土真宗の信仰であった。

法華信仰との出会いは、角界に入って2年目の昭和4年(1929)のことである。

序二段の双葉山は重い脚気に罹り、思うような成績をあげられない状態が続いた。悶々と日々を送るうち、同門の佐賀錦に誘われて堀ノ内に住む妙正尼のもとへと通うようになる。道場で唱題修行を始めると、みるみるうちに脚気は治り、成績も上向いていった。時には、朝稽古を中座してまで堀ノ内に通ったという。昭和14年(1939)の夏場所中に妙正尼が危篤に陥った時、横綱双葉山は1日休場して病床にかけつけた。不戦敗を覚悟するほどの恩誼を妙正尼に感じていたのである。

妙正尼亡き後も法華信仰を持ち、昭和15年(1940)の夏場所不振で途中休場したとき、山に篭り精進潔斎し滝にうたれながらお題目を唱える行を福岡県筑紫でしている。この修行は滝の近くに住む投野尼に勧められてのものだった。法尼の住むお堂は、後に双葉山の尽力によって日蓮宗妙音教会となっている。

双葉山が初めて身延へ詣でたのは昭和16年(1941)のことであった。付き人西村吉平に連れられたもので、大横綱の参詣に山内は大変な騒ぎになったという。望月日謙法主は双葉山を大奥に招き歓談した後、庭を散策することになった。日謙法主はその頃足が不自由で車イスの移動となった。

「法主さま 私が押しましょう」

「怪力で押さぬようにな」

と注文をつけ、双葉山が押し始めると、日謙法主が突然

「横綱 右眼が悪いのか」

と、誰も知らぬ秘密を見破ってしまったのだ。双葉山は七歳の時、川遊びの最中右眼を傷つけ失明したのであった。力士にとって致命的なハンディを背負いながら練習と精神力で最高位を獲得したのだ。無口で無愛想といわれた双葉山であるが、右眼の秘密を見抜いた日謙法主の前では実によく喋ったという。相撲のこと、家庭のこと、人生のこと等。引退後、両国に橘講という結社を設け、講元として月一回の信行会を開き、年一回講員を連れて身延へ参詣した。何よりも身延へ参拝し講員と話をするのが楽しみであったという。

昭和20年(1945)11月に引退するまで優勝12回、そのうち全勝優勝8回そして69連勝、年に2場所のなかでの輝かしい成績。決して「マッタ」をせず、正々堂々とどんな技をしかけられても受けて立つ相撲道は、法華信仰、「忍難慈勝」の教えから学んだと自ら語ったという。法華信仰への志は、子や孫に受け継がれている。長子経治は、日謙法主の法嗣日雄上人の弟子となって出家し(昭和63年遷化)、その長女は宝塚花組で活躍し、次女は立正大学で仏教を学び信行道場を修了して教師資格を得、妙音教会の継承護持を目ざしている。