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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

岡 晴夫(1916~1970)

青く明るい空のように昭和の青春歌を人々に送った永遠の流行歌手。

昭和の青春を唄い、永遠の流行歌手と評され、いまだハワイに行ったことのない歌手がハワイを唄って大ヒットさせた。オカッパル節の岡晴夫さんである。

晴夫さんは、大正五年(一九一六)一月十二日、千葉県木更津市に佐々木家の長男として生を享ける。名は辰年ということで辰男と名付けられた。しかし、両親は幼い辰男を遺し相次いで他界。辰男は孤児となり、祖父に育てられた。

はにかみ屋の辰男は唱歌の時間が嫌いだった。人前で唄うからだ。成績はいつも丙(へい)。ところが、六年生の時、音楽の先生から皆の前で唄うことを促された。すると、実に澄んだ声で朗々と唄ったのである。先生は辰男を大いにほめ、これを機に歌への興味を持ち、「将来はビッグな歌手に」との夢を抱くようになる。

夢実現のため十六歳の春上京。御徒町(おかちまち)の万年筆屋の店員をしながら音楽塾へ通った。その一年後には上野松阪屋に勤める。ある日、昼休みに屋上に出たところ、みわたす限りの青い空。自然に藤山一郎の『丘を越えて』が鼻歌で出てくる。「そうだ。僕が歌手になったら、青く明るい空、岡晴夫にしよう」と一人で納得したのだった。

昭和九年、運命的な出会いが二つ生まれる。一つは後の名作曲家上原げんと氏、もう一つは後に妻となる奥田清子さんとの出会いであった。

知人の紹介で作曲の勉強を目指すげんととの共同下宿生活が始まった。夜は浅草や上野界隈(かいわい)の酒場で流しをし、昼は音楽の勉強の日々。暇つぶしに錦糸町へ映画を観に行き、その後寄った氷屋で幾度か清子と出会う。

話すうちに二人は意気投合。辰男は交際の許しを両親に求めたが、反応は冷たかった。「定職をもたない者は駄目だ」というものだった。清子は意を決し家出をした。アルバイトをしながら、二人の下宿屋で家事もした。

昭和十三年十二月、育ててくれた祖父が亡くなった。葬儀はげんとと清子からのカンパでなんとか出した。初七日忌が過ぎたころ、キングレコードに売り込む話がもち上がる。文京区にあった東洋一のスタジオでオーディションを受けることとなる。キング側にしてみれば、毎日のように売り込みがあり、「またか」の思いで受け容れたのだが、いざオーディションが始まると、素晴らしい音声(おんじょう)と曲に聴き入るのみ。まさに珠を見つけたのであった。

スタジオから二人が出てくると、契約書が待っていた。キングレコードの専属歌手と作曲家、『岡晴夫』」と『上原げんと』の誕生であった。

昭和十四年二月、『国境の春』でデビュー、『上海の花売娘』『港シャンソン』等を次々と世に送り、晴夫はスター街道まっしぐらとなる。本来なら、華燭(かしょく)の典(てん)をあげるはずの清子が、手紙を下宿屋に残して雲隠れしてしまう。晴夫がスターになるためには、自分の存在が邪魔になるという配慮からであった。手紙を見た晴夫は落胆の日々を送る。

赤い糸が太かったのだろうか。晴夫を気遣った朋友げんとが清子を探し出し、縁をとりもった。昭和十五年の夏、二人は典をあげ、市川市に小さな新居を構えた。

昭和十六年十二月、太平洋戦争が始まり、晴夫にも赤紙が舞い込んだ。十九年には外地、インドネシア領アンポン島に配属されるが、現地で風土病にかかり、また、劣悪な環境のために身体をこわし、帰国を余儀なくされる。このことが後にまで影響する。

妻清子は信仰に篤い人であった。夫の応召に、戦地での無事、帰国してからは健康回復を願い、神社仏閣に詣でて祈った。そして日蓮宗本立院(ほんりゅういん)(江東区平野)での祈(#1)会(きとうえ)に足を運んだ。

戦争が終わり、体調が戻った晴夫は音楽活動を再開させる。歌謡界は戦中の軍国主義を高揚する歌から、希望を抱く明るい歌へと大転換を図った。サトウハチロー作詞『リンゴの詩』、そして、晴夫はブギのリズム『東京の花売娘』で大ヒット。昭和二十二年に『啼くな小鳩よ』、二十三年に『憧れのハワイ航路』を出して大ヒットを連発し、映画界にも進出する。そして、楽団ニュースターを結成して全国津々浦々を巡った。地方巡業はアンコールの連続、東京の浅草国際劇場や大阪大劇で初めてのワンマンショーも行った。

NHKの紅白歌合戦は昭和26年に始まった。しかし"最後まで唄ってこそ聞いてもらう意義がある"との思いから出場しようとはしなかった。晴夫が選んだのは、苦しい生活を過ごす人々と年の瀬のささやかな幸せを共有するために、各地に赴いての生のステージであった。

ある日、少女が果物カゴを持って楽屋へと訪ねてきた。晴夫は快く色紙にサインをし、受け取って話を聞くと、月々の小遣いを節約して入場券と果物を買ったという。「ありがとう。勉強も頑張るんだよ」と励ますと、少女ははにかみながら立ち去って行った。足元を何気なしに見ると、靴下がすり切れ、穴があいていた。「自分のことより、私のために……」熱いものが込み上げてくる。早速、マネージャーをデパートに走らせ、コンサート後に靴下をプレゼントした。

子どもにも三人恵まれ、幸せの絶頂期であったが、全国を飛びまわる晴夫の身体は、戦時中に患った病とハードスケジュールのため次第に蝕まれていった。

いかに人気がある芸能人であっても、病気療養で少しでもブランクがあると、忘れ去られてしまうのが芸能界である。昭和二十年代には売れに売れた晴夫だが、二十九年ごろからはヒットも出なくなり、糖尿病から白内障を併発してしまう。塞ぎ込む晴夫に、
「お父さん、まだ子どもたちも小さいし、しっかりしてくださいな。今度一緒にお詣りに行きましょうよ」
と妻清子は誘い、身延山(みのぶさん)と七面山(しちめんざん)を参詣したのであった。七面山頂でご来光を拝し、雲海に浮かぶ富士に、
「素晴らしい、人間なんてちっぽけなもんだ」
とポツリと呟き、自身の存在・悩み事の小さきを実感したという。以降、身延に幾度か詣で、七面山にも子どもと共に登詣した。登詣の時には、お題目を唱え、自身の曲も口ずさんだ。晩年の晴夫は病魔と闘う日々であったが、ゆっくりと家族と共に過ごし、清子さんと寺巡り、身延詣を楽しみにしていたという。

昭和四十五年五月十七日、昭和の青春歌を唄った岡晴夫さんは、行年(ぎょうねん)五十四で霊山往詣(りょうぜんおうけい)した。菩提寺(甲州誠佑住職)より法名「天晴院法唱日詠居士」が授与され、遺骨は本立院墓所に葬られた。佐々木家の仏壇には、本立院から送られた立教開宗七百年(昭和二十七年四月二十八日)慶讃のお曼荼羅が奉掲されている。