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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

中条静夫(1926~1994)

俳優。謙虚の心が光る名脇役、人生でもTVでも常に"陰徳"をつんできた。

夜空に輝く星々がそうであるように、芸能界にあっても鶴田浩二、石原裕次郎、萬屋錦之助、高倉健のように煌星のごとく輝く大スターもいれば、異色の光を放っていぶし銀のごとくそっと輝くスターもいる。

平成6年(1994)10月5日、名脇役と称されたスターがお題目で霊山(りょうぜん)浄土へと送られた。中条静夫さんである。中条さんの本名は、中條静雄といった。大正15年(1926)3月30日、新聞記者中條巍乎氏がもうけた二男二女の長男として静岡に生を享ける。名の静雄は生誕の地名・静岡の一字からとられたものだという。小学生の時、父の仕事の都合で上京(新宿から八王子へと移る)、八王子商業高校を卒業後、神戸製鋼へと入社し勤務するなかで第二次世界大戦の終戦を迎える。

中條家の父や母は音楽に造詣が深く、弟はマンドリンの演奏者でもあった。また、長女はミス八王子にも選ばれ、中条さんの周囲環境は芸能界入りへの後押しが十分なものであったといえよう。昭和23年、父の勧めもあり長女と2人で大映の入社試験を受けることとなる。結果は2人とも合格。しかし、最終的に兄妹2人の入社は許されず、妹は断念して中条さん1人の大映入りとなる。

早速、ニューフェースとしてデビューを果たしたものの給料制の大部屋住まいがずっと続く。友人や後輩との付き合いを大事にする中条さん。貰った安給料はまたたく間に飲み代・麻雀・競馬へと消えていってしまった。昭和34年(1959)の3月30日、中条さんの誕生日に大映が縁で智敏さんを娶る。独身時代は安給料でもどうにか食いつないでいくことはできたが、妻を養っていくことは所詮無理であった。無理を承知のうえで結婚したのであった。ちょい役ばかりの日々に、妻は靴箱づくりなどの内職をして家計を助けなければならなかった。

昭和36年、中条さんにショックな出来事が起こってしまう。3歳年下の弟孝さんが33歳の若さで逝ってしまったのだ。そして、後を追うように弟の妻も早逝する。3歳の男子実くんが遺児として残されてしまった。中条さんは苦しい家計状況にもかかわらず、実くんを快くひきとり家族の一員として養育したのである。弟夫妻は八王子の本立寺へ葬られた。

ますます厳しくなる生活。しかし、弟夫妻の月命日には墓参を欠かさなかった中条さん。ある日、住職(及川真学師)に呼び止められ、書院へと招かれ、

「中条さん、ちょっと疲れておるのじゃないかい。背が丸くなっておるよ」

「はあ、そう見えますか。役もこないし、弟は死んでしまうし、困ったもんですわ」

「中条さん、くさってはいかん。だがな、あんたは陰徳をつんでおる。お釈迦さまはきっとみておられるよ。実くんを立派に育てることが尊いんじゃ。ただな、苦しい時も、楽しい時も必ずお題目を唱えなされ。必ず良い報いがあるから安心せい」

と励まされた。これを機に中条さんはしばしば及川住職と話を交わし、本堂前で必ず手を合わせるようになったという。

昭和40年(1965)、ついに中条さんに役が廻ってくることになる。「ザ・ガードマン」である。まさに40歳の中年デビューであった。宇津井健を主役に、神山繁・藤巻潤などとともに脇役を演じたのであった。これがはまり役となった。

この役以降、決して目立つ主役となることはなく、いぶし銀の名脇役として「あぶない刑事」「毎日が日曜日」「雲のじゅうたん」「京ふたり」「六羽のかもめ」などに出演、最期の役を演じた「男の居場所」に至るまで実に百有余のテレビドラマ・映画にと活躍したのであった。

中条さんは、一度だけ舞台に立ったことがあったという。昭和48年(1973)、現代演劇協会が主催する巣鴨三百人劇場で「ベニスの商人」の大王役を演じた。ところがその初日、舞台に中条さんが現れると、客席から、

「あっ、ガードマンだ」

という声が発せられた。中条さんは、顔を赤らめるばかりで茫然自失、台詞をとちってしまったのである。この事件以後、一度たりとも舞台で演じることはなかったという。

ある祝宴で元大映社長・永田雅一氏と会話する機会を得たという。このころ、永田氏はもう映画界から身を引き、しみじみと昔話を一気に中条さんに語った。そのなかで、

「中条君、私は君の才能を見抜くことができず、まことに申し訳ないことをしてしまったよ。大映という会社にとっては残念至極。ところで君も日蓮宗信徒だってな。同じ信徒としても応援するから今後もぜひいい役者をしてくださいよ」

といわれたという。この言葉に中条さん、昔の下積み生活の苦労などいっぺんにふきとんでしまった。

菩提寺本立寺の催しに中条さんは協力を惜しまなかった。盆施餓鬼の法話を、八王子市仏教会主催の花まつりの法話を、そして熊谷市にある立正幼稚園での講話を快くひきうけ、大いに自身の人生観や仏教観を披露したという。お礼にと謝礼を出そうとすると、

「私に陰徳をつませてくださいよ」

といって受け取らなかったという。

苦節17年。妻・智敏さんの大きな支えがあり、陰徳をつむことによって齢四十にして見事に役者として華を咲かせた中条さん。名脇役は行年六十九で多くの人々に惜しまれながら逝ってしまった。

八王子の夜の街で「花のサンフランシスコ」を歌い、一杯飲み屋で人生談義を心ゆくまでした中条さん。その戒名"信楽院端正日静居士"が示すがごとく、まことに実直で裏表が全くなく皆から慕われるお洒落で素敵な紳士であったという。

さぞや今ごろ霊山浄土のお釈迦さま、日蓮聖人、そして永田元大映社長の前で「ザ・ガードマン」や「京ふたり」の演技のことや得意の喉をきかせながら、

「来世は私が主役を演じますよ」

と猛稽古に励んでいらっしゃるのではなかろうか。