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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

美空ひばり(1937~1989)

歌手。自身の不幸にもめげず"他人(ひと)"に生きる勇気を与え続けた昭和の歌姫。

昭和の歌姫美空ひばりさんが最晩年に唄ったヒット曲『川の流れのように』(作詞・秋元康)。その詩は、ひばりさんの人生そのものを綴ったようにも聴こえてくる。ひばりさんの数多くのヒット曲は、戦後、物心共に貧しかった時代の人々に生きる勇気を与え、日本の高度成長を支えた人々に人生を励ます応援歌ともなった。そのひばりさんが多くの人々から「ありがとうひばりさん」の声に送られて逝ってから早や10年の歳月がたつ。それでもなお、横浜市の高台にある墓には今でも20を超える花束が毎日供えられている。

ひばりさんの日蓮宗との出会いは、昭和38年2月であった。五十二歳で他界した父・加藤増吉さんの葬儀が縁となったのである。磯子区で魚屋を営んだ加藤家に菩提寺はなかった。増吉さんと妻・喜美枝さんは2女2男をもうけ、次女の勢津子さんは、代々日蓮宗の講元(親善講)である佐藤家に嫁ぎ、法華経要品(ほけきょうようほん)を読むほどの法華信仰を育んでいた。勢津子さんの勧めもあって、横浜市港南区にある唱導寺(菅野海成住職)によって父の葬儀が執り行われたのであった。

ひばりさんは9歳で芸能界にデビュー、11歳で加藤和枝を改めて 「美空ひばり」 を名のり、13歳の時の映画主題歌『東京キッド』が大ヒットし、天才少女として大スターへの道をひた走っていった。

しかし、家庭的には決して恵まれた人生ではなかった。銀幕の大スター小林旭との結婚生活は1年10ヵ月で終わり、結婚の翌年に父が亡くなり、その後も身内に不幸が続いたのであった。

父の葬儀後、ひばりさんは墓所と唱導寺に詣でるようになる。ことに正月3日の初詣と盆参りは欠かさなかった。当然のことながら、正月やお盆には他の檀信徒が大勢参詣に来ていたのだが、だれ一人として大スターの存在に気付かなかったという。ひばりさんは、わざわざ地味な恰好をして寺と墓参りをしたのであった。それは、お寺に迷惑をかけないようにとのひばりさんの配慮であった。ひばりさんが帰った後、

「今までひばりさんがいたんだよ」  と檀信徒に菅野住職が話すと、

「何で教えてくれなかったの」  とくやしがるのが常であったという。

「お嬢」「ママ」の一卵性母娘と評せられたが、その母も昭和56年7月29日に逝ってしまう。他界する前、病に倒れた母の入院する病院へひばりさんの要請で菅野住職は見舞ったことがある。ちょうど、長男・哲也さんが目黒に新居を構え、家祈祷を行った時に病院での闘病平癒のお経を依頼されたのであった。

「お上人さん、お願いがあるんですよ」

「ひばりさん、頼みとは何ですか」

「母の病室でお経をあげてもらいたいのですよ」

「エー、病院ですか。嫌がられませんかな……。 でも、ひばりさんがそれほどおっしゃるなら喜んでやりましょう」

病室に入った菅野住職は、絶対安静で寝入っている喜美枝さんに向かい静かに読経を始めた。すると、昏睡状態にあった喜美枝さんの表情がかすかに変わったという。ひばりさんはしっかりと母の手を握り、母の回復を願って美しい声でお題目を唱え始めたのであった。

主治医の見立てより3ヵ月ほど寿命をいただいた喜美枝さんであったが、69歳で他界した。それに追いうちをかけるように不幸が襲うこととなる。ひばりさんが頼りにしていた弟二人、昭和58年10月に哲也さん、61年4月に武彦さんが共に42歳という人生半ばで続いて逝ってしまったのだった。ひばりさんは失意のドン底であった。なぜ自分の肉親に不幸ばかり起こるのかと。

菅野住職は月1回喜美枝さんの命日に目黒にあるひばり邸へ回向(えこう)に出向いた。公演で忙しいひばりさんであったが、在宅の時には必ず住職の後ろに坐し、共にお題目を唱えたという。そして、回向が終わった後、お茶菓子を食べながら菅野住職と話をするのが楽しみであった。ひばりさんの口から芸能界のこと、家族のこと、悩み事を打ち明けられた。

「お上人さん。実はね、私も普通のおばさんやりたいの。
デパートのバーゲンセールに行って買い物をたくさんしたいの」

「寺へこられる時のように地味な恰好をすればいいじゃないですか」

「それができないの。 それにしてもなぜ不幸ばかり身内に起こるんでしょうかね」

「ウーン、弱音を吐くのはひばりさんらしくないな」

「そういわれても、私も女。辛いことばかり続くと、滅入ってしまうんですよ」

「よくわかりますよ。だけどね、ひばりさん。世の中、もっと不幸な人がたくさんいるんですよ。 あなたと同じような境遇、もっと不幸な立場にある人は、あなたの歌声にどれほど励まされるか知れないんですよ」

「はい、お上人さん、わかりました。一生懸命唄いますわ」

連続の不幸にもめげず、ひばりさんは唄い続けた。しかし、遂に自身にも病魔が襲い来る。次男武彦さんを送って1年後、左右大腿骨骨頭壊死という病で入院を余儀なくされてしまう。113日に及ぶ入院生活の後に退院し、自宅療養となる。そして、10月にはレコーディングを果たし、翌63年4月12日には東京ドームに満員の5万人のファンを集めてコンサートを開き、“不死鳥ひばり”をアピールしたのだった。しかし、平成に入って再び病魔に冒されて入院。遂に昭和の歌姫は、平成元年6月24日、父と同じ齢(よわい)五十二で不帰の人となってしまった。戒名は慈唱院美空日和清大姉。

ひばりさんの遺骨は、菩提寺唱導寺の裏山にある加藤家の墓に葬られ、今日でも参詣者が絶えない。6月24日の命日となると、後援会による法要が催され、参加した人のすべてが唱題する。その理由は、「ひばりさんがお題目の信仰をしていたから」という。

自身のまわりに続く不幸にもめげず歌によって他人に生きる勇気を与え続けた美空ひばりさん。その姿は、代受苦の菩薩(だいじゅくのぼさつ)にも通じるといえよう。