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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

三遊亭円右(1923~2006)

お祖師さまが大好きな噺家は全国の寺で"御一代"を語るのが夢。

講談・浪曲・落語等、日本伝統の話芸の話し方や話の組み立ては、仏教の説教にルーツがあると関山和夫氏はその著書『説教の歴史』(白水社/1992年刊)で指摘している。
講談師が使う笏(しゃく)、落語家が持つ扇子・手ぬぐいもその影響を受けているという。
仏教の語りが生んだ落語には、仏教にかかわる噺が数多くある。「お血脈」「お盆」「位牌(いはい)屋」「心眼(しんがん)」等。
そして、日蓮宗を話材としたものには「法華長屋(ほっけながや)」「甲府い」「鰍沢(かじかざわ)」「堀ノ内」等がある。
筆者は、青年時代のある日、休日を利用して上野の鈴本演芸場へと足を運んだ。
そのとき聴いたのが「堀の内」であった。

「堀の内」は、並はずれた粗忽者(そこつもの)が神田から堀之内妙法寺(みょうほうじ)へと参拝する往復の珍道中を語ったものである。
そのとき「堀の内」を語っていたのが、第3代目三遊亭円右(さんゆうていえんう)師匠であった。
実に温厚でふんわりとした温かい語りで、自身の宗旨(しゅうし)が日蓮宗であると誠に正正堂堂と話したのが印象に残った。
円右師匠は大正(たいしょう)12年(1923)12月8日、釈尊成道(しゃくそんじょうどう)の聖日(せいじつ)、父粕谷伊三郎(かすやいさぶろう)と母つなのもうけた2男1女の長男として生を享け、泰三(たいぞう)と名付けられた。 円右師匠は、その日に生まれたことに誇りに感じているという。
父は木村重丸(しげまる)の名を持つ浪曲師、母は常磐津(ときわづ)の師匠で、常磐津文字綱(もじつな)。
芸道一家という家庭環境は、少なからず泰三少年の後の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
父の菩提寺(ぼだいじ)は臨済宗(りんざいしゅう)であったが、粕谷家に嫁いだ母の実家(柴崎家)は、日蓮宗篤信(とくしん)の家であった。
母の従兄弟は、千葉県安房小湊(あわこみなと)にある日蓮宗の寺の住職をしていた。
泰三少年は夏休みになると、毎年小湊に行って遊んだ。

その寺は妙日山妙蓮寺(みょうにちさんみょうれんじ)という、日蓮聖人(しょうにん)の父母をお祀(まつ)りする日蓮宗の名刹(めいさつ)で、住職は星野日泰(にったい)師であった。
日泰師は精進潔斎(しょうじんけっさい)の人で子どもがなかった。そのため、泰三少年が遊びに来るのを心待ちにしていたという。

夏のある日、日泰師は泰三に尋ねた。

「寺は面白いか。境内は広いし、近くには泳げるきれいな海もある。泰三、坊さんになってみないか」

「うーん。考えてみようかなあ。だけど僕、お父さんの跡を継ぐんだ」

「あーっ、そうか。泰三は長男だったなあ」

しかし、この後も幾度か僧侶(そうりょ)となることを勧められたという。

父母から受け継いだDNAが芽生える時が来る。
父重丸のもとには演芸界の人々が頻繁に出入りしていた。
今でいう芸能プロダクションというところであろうか。
出入りする落語家の様を泰三少年はまねてみた。これが結構堂に入っていた。父はそれを見て喜んだ。

小学校5年の時、ある寄席(よせ)の楽屋へ遊びに行っていたところ、事件が起きた。
次に出番予定の出演者が急病で来られないという。真打が出るわけにもいかず、このままでは穴があいてしまう。

「そうだ。泰三、つないでくれ!」

そこで、泰三少年が高座にのぼった。
あどけない少年の登場に、客は驚くやら喜ぶやら。 ほんの十分ほどの話であったが、「越後屋(えちごや)」という古典落語に拍手喝采、ご祝儀が飛ぶ盛況となってしまった。
これで味を占めた泰三少年、さらに話術に磨きをかける。

昭和16年、橘小円左(こえんざ)として前座デビュー。18歳であった。
しかし、この年、日本は太平洋戦争へ突入、暗い時代を迎える。
小円左も例外ではなく、赤紙が届いた。砲兵として、南方戦線、タイ・ベトナム、そしてインドネシアのスマトラ島を転戦した。
昭和20年8月15日、日本は敗れ、終戦を迎えた。
その時、小円左はスマトラにいた。日本本土へ復員を果たしたのは、翌21年のことだった。
復員して間もなく、噺家として復活する時が来る。今は新宿の超高層ビル群となっているが、以前は浄水場の跡地があった。
この場で戦後復興大演芸会が催され、小円左は司会を務めた。
皮肉なことに出演者よりも司会が大いにうけた。

このころ、師匠を、古今亭今輔(ここんていいますけ)を師匠に改め、落語芸術協会に入り、古今亭寿輔(じゅすけ)となった。
昭和30年には真打に昇進し、三代目三遊亭円右を襲名した。
現在、落語芸術協会の顧問を務める桂米丸(かつらよねまる)師匠とは兄弟弟子であり、相談役を円右師匠が務めている。
師匠の今輔は、婆さん役が実にうまい噺家であった。 弟子である円右師匠もそれを受け、一味違う婆さんを世に送った。
なかでも「銀婚式」「温泉ばあさん」「七夕ばあさん」は有名だ。

昭和26年3月5日、今輔師匠の長女以祢子(いねこ)と華燭の典をあげる。今輔落語の後事を託した証ともいえよう。
義父今輔師匠は9人の子どもをもうけたが、5人を失った。円右師匠も3人の子どものうち、長女と次女が早逝してしまった。次女が亡くなった後、妻は3人目はもう産みたくないといったという。

噺家であるが故、義父もそうであったように、身内におこった悲しみをも押し隠して、他人さまに笑いを提供しなければならない。
時として誠に辛い職である。
幼児2人の遺骸は、父の宗旨の寺ではなく、円右師匠が幼いころから身にしみこんだ法華経とお題目の寺である堀ノ内妙法寺の墓所に葬られた。
夫妻は命日には墓参を欠かすことがない。
円右師匠には重要な日課がある。
毎朝のお勤めであり、日曜日には三十分を超えるという。
開経偈(かいきょうげ)に始まり、法華経を読み、お題目を唱え、そして回向(えこう)する。
回向は粕谷家、2女児の追善はもちろんのこと、必ず今輔師匠と鈴木家(今輔師匠の家名)も読みあげる。

「お題目をあげないと、ご先祖さまに申しわけないし、その日1日中気分が悪いね。わたしゃお祖師さまと日朗(にちろう)さまが大好きでね」

と屈託なく語る。

円右師匠の芸風は、6人の弟子、古今亭寿輔・三遊亭小円右・三遊亭右紋等に伝えられている。
円右師匠には夢がある。それは『日蓮聖人一代記』を全国の寺々で語ることである。
そしてそれを弟子たちにも受け継いでもらえればと思っている。
すでに菩提寺はもちろんのこと、今までに30ヶ寺で披露された。
日蓮宗の寺のすべては見果てぬ夢かもしれないが、霊山浄土(りょうぜんじょうど)で
  『円右、よくやったな』
とお祖師さまに声をかけられることを希(ねが)っていたという。