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日蓮聖人の生涯:お釈迦さまの教えを受け継いだ法華経の行者―日蓮聖人

第5章 すべては正しい教えで良い社会をつくるために

『立正安国論』の中で予言された外国からの攻撃が、蒙古襲来というかたちで現実のものとなると、幕府は日蓮聖人の流罪を解き、鎌倉に呼び戻します。しかし、幕府が、『立正安国論』の真意を汲み取ろうとしていないことを悟ると、日蓮聖人は鎌倉を離れ、山梨にある身延山(現在の身延山久遠寺)へと身を置きます。ここで、国の将来を見据え、法華経を受け継ぎ「南無妙法蓮華経」=お題目を広める仏弟子の教育・育成に力を注ぎました。後に、この身延山で学んだ弟子や信徒らによって、教えは全国へと広がることとなったのです。

法華経の行者として激しく生き続けてきた日蓮聖人ですが、その人生ゆえに、満足に親孝行ができなかったことを振り返ることもありました。遠く安房の国が望める身延山の山頂に登っては、亡くなられた両親への追慕に涙したと伝えられます。「その恩徳を思えば、父母の恩・国主の恩・一切衆生(いっさいしゅじょう)の恩なり。その中、悲母(ひも)の大恩ことに報じがたし」。受けた恩を思うならば、人間に生まれて法華経に出会わせてくれた父母の恩、国の恩、全ての人びとの恩にむくいていかなければならない。なかでも母よりうけた大きな恩は、とてもむくいることができないほど重い――。母に対する思慕の深さが伺えます。不屈の精神の持ち主でありながら、こうした温もりのある一面も持ち合わせていた日蓮聖人。それが、多くの人の心を惹きつけてやまない魅力なのかもしれません。

入滅/「日像上人帝都弘通委嘱之図」

その後も9年間に渡り弟子の育成を続けた日蓮聖人は、長年の厳しい生活で崩した身体を癒すため常陸の国(現在の茨城県)の湯治場へ向かいます。しかし途中、池上宗仲邸(現在の東京都・池上本門寺)で容態が悪化。ついには立ち上がることもできなくなりました。それでも最後の力を振り絞り、弟子たちに『立正安国論』の講義をしたといいます。

10月13日の朝、日蓮聖人は弱冠13歳の経一丸(きょういちまろ、後の日像上人)を枕元に呼び京都での布教を託すと、多くの弟子たちに見守られながら、61歳の生涯を閉じたのです。