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のんびり行こう ぶらりお寺たび 〜月刊「旅行読売」編〜
のんびり行こう ぶらりお寺たび 旅で出会った名刹で日蓮聖人の教えに触れる。そっと手を合わせ、癒やしのひとときを。

Vol.22 新潟 佐渡 日蓮聖人の魂魄が宿る島へ

今から750年前、日蓮聖人が教義を極めた佐渡島。流人として超えた山、謫居の地、綴った手紙など、聖人が見た風景を探す旅へ。

聖人が歩いた山越えの道を行脚して

 日蓮聖人が佐渡へ配流されたのは、旧暦の文永8年(1271年)10月28日。『立正安国論』の奏上を発端に、聖人が鎌倉幕府から弾圧され、江ノ島を望む龍ノ口で処刑されかけた「龍口(りゅうこう)法難」から一か月後のことだ。すでに冬の冷たい風が吹きつける中、舟は越佐海峡を渡って南西岸の松ヶ崎に到着。聖人は浜辺にあったケヤキの大木の穴の中で三日三晩を過ごした後、険しい小佐渡山脈を一日で越え、国中平野にある本間六郎左衛門重連(しげつら)の屋敷へ向かった。
 重連は、幕府から流人預かりの任を受けていた佐渡国守護代、本間氏の家臣。聖人は重連の屋敷から、さらに「塚原」という死人を捨てる寂しい場所へ連れて行かれ、朽ち果てそうな三昧堂に一人、放置されたという。
 この時、聖人が辿った山越えの道はどこか……。地元でも、話に聞いたことはあっても実際に歩いた人は少ない。そこで、「750年の節目に歩いてみないか」と、三昧堂の霊跡、根本寺の竹中智英貫首が呼びかけたところ、たちまち賛同者が集まり実現することとなった。聖人が塚原に到着した11月1日に例年行われる法要に合わせて、令和2年(2020年)10月30日〜31日に実施。二日間かけたのは、参加者の安全面を考慮してのことだ。そして当日、島内外から僧侶、信者など約40人が集まった。
 初日は、聖人着岸の法華岩から出発し、世阿弥も歩いたとされる笹首戸(ささんくびと)峠を越えて小倉集落の御梅堂へ。ここは聖人が休息した地であり、聖人の杖が根付いたという梅の古木や、お手植えの藤が今も旅人を迎えている。二日目は、御梅堂からいくつかの山里を越えて山を下り、総距離22キロ、二日間の行脚の末に根本寺三昧堂へ到着した。
 50歳の聖人が釈迦牟尼仏を懐中に、何を思い、どんな足取りで……と、思い巡らせながら一歩一歩、噛みしめるように行脚した一行は、「まるで大聖人とともに750年前の空気を吸った心地です」と、口々に感動を語り、晴れやかな表情を浮かべた。辛いはずの山越えも、聖人とともにあるなら喜びになる。聖人に直接仕えた弟子や信者たちも同じような心境だったのだろうかと、腑に落ちる思いがした。

雨続きだった佐渡で、行脚と法要の三日間は不思議と晴天に恵まれた
山中の小倉集落に伝わる聖人休息の地、御梅堂
根本寺の三昧堂で営まれた佐渡配流750年法要

『開目抄』はあばら家で生まれた

 ところで、塚原での聖人の暮らしぶりはどんなものだったのか。遺文『法蓮抄』によれば、建物は「落ち破れたる草堂の、上(屋根)は雨漏り、壁は風もたまらぬ」うえ、雪が多く「衣薄く食乏し」という有様。それでも「法華経を弘めん」という信念は決して揺らがなかった。床に敷皮を敷き、蓑をかぶって耐え忍んだという。
 聖人を法敵と見なす他宗の法師、信者らも迫害にやってきた。なかでも有名なのは、年明けの文永9年(1272年)1月16日の「塚原問答」だ。越後、越中、出羽、奥州、信濃の諸国から数百人の法師が詰めかけ、その大法論対決において聖人は「大風が草をなびかすが如し」と後に述懐するほどの大勝利を収めている。こうして一人、また一人と、聖人に帰依する者が増えていく中、ますます末法の伝道師としての思索が深まった聖人は、衆生の目を開く『開目抄(かいもくしょう)』を書き上げた。後世に語り継がれる代表作は、まるで泥水の中に蓮の花が咲くように、風葬地のあばら家で生まれたのだ。
 令和3年(2021年)2月は、『開目抄』の執筆からちょうど750年の節目にあたる。その「あばら家」があったとされる場所には今、天正15年(1587年)、京都妙覚寺からはるばる三昧堂旧跡を訪ねてやって来た日典上人によって開創された根本寺がある。1万7000坪もの境内に、本堂、祖師堂、二天門など29の堂宇が並ぶ。再建された三昧堂や、四季折々に美しい庭園もある。周辺には豊かな穀倉地帯が広がり、ここがかつて寂しい風葬地だったとは思いも寄らない。
 しかし、寺に伝わる聖人の遺品を見れば、過酷な日々がたちまち現実味を帯びて迫ってくる。余りにも質素な食器や洗面器、数珠などのわずかな法具……。飢えと寒さの中、自らを見つめた聖人の姿が目に浮かんだ。それにしても、ともすれば失われがちなこれら日常使いの品々が今に伝わっているとは驚きだ。島人たちがずっと大切にしてきたからに他ならず、三昧堂においても密かに聖人を助ける人々があったことが伺える。それら温かな繋がりも『開目抄』の執筆を支えた一つに違いない。

『開目抄』執筆750年の節目に訪れたい三昧堂
金銀山の山師、味方但馬の外護で再建された祖師堂
四季折々に美しい苔むした庭園
霊跡「塚原」の名を山号に掲げる

聖人の教義ここに極まる、一谷

 塚原問答や『開目抄』などを通して聖人に対する誤解が尊崇へと変わっていった人々の中に、あの重連もいた。雪解けの4月、法華経に帰依する民が増えてきたことで聖人はさらなる僻地へ移されることになったが、今度は雨風をきちんとしのげる庵が用意されていた。越した先は、重連の家臣、近藤清久の領地で、人里離れた幽谷の地だ。
 聖人は赦免されるまでの二年半をここで過ごす中、ついにその教義を極めるに至る。自身の述作の中でも随一とされる『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』を著し、さらに本尊『法華曼荼羅』(佐渡始顕本尊)を初めて書き顕したのだ。文永10年(1273年)のことである。そんな聖地を「一谷(いちのさわ)」と名付けたのは聖人自身であり、「初めて極まる」という意味を持つ。
 一谷には今、聖人の草庵を起源とする妙照寺がある。訪ねてみると、表通りから寺らしき建物はまるで見えず、坂を上っていくと仁王門が現れる。門をくぐると今度は下りの石段が続き、谷底まで下ったところで再び山門が現れた。三方を山に囲まれて、地形的にもまさに「極まった場所」。まるで世の中から隔離されたような静けさの中、そこだけ時が止まっているかのような大きな茅葺き屋根の本堂が佇み、聖地に相応しい凜とした空気に満ちていた。
 当時、ここには聖人の住まう草庵と、監視役である清久の屋敷が仁王門の近くにあるだけだったとか。清久もいつ頃からか息子ともども信者となり、監視役から匿う側へと転じていた。鎌倉から給仕に来る弟子たちがともに暮らすようになったのも、清久の計らいだろう。後に同山の二祖となる日静(にちじょう)上人も清久の一族で、聖人の庵を新築するなど熱心に給仕した。文永11年(1274年)3月、赦免となった聖人は鎌倉へ帰る際、この上なく別れを惜しむ日静上人に、自ら鏡を見ながら描いた自画像を形見として渡したという。祖師堂に祀る『鏡御影(かがみのみえい)日蓮聖人』は、その自画像をもとに日静上人が彫り上げた御像と伝えられている。
 残された島人は、生き写しの祖師像に聖人を偲びながらお勤めを続けた。その唱題が遠く身延山まで届いたのか、建治元年(1275年)に身延の聖人から一谷へ、山号寺号と本尊二幅が授けられ、妙照寺が創建された。立派な堂宇が立つ今も、草庵があった場所(今は祖師堂が立つ)の傍らにはひっそりと聖人の腰掛石が伝わっている。

聖人の草庵跡に立つ祖師堂
日蓮宗の本尊曼荼羅はここで初めて書かれた
江戸初期の再建という茅葺き屋根の本堂
祖師像を祀る本堂内陣

阿佛房ゆかりの旧跡霊場

 聖人を信奉した島人の中で最も有名なのは、「阿佛房(あぶつぼう)」こと日得(にっとく)上人だ。もとは念仏信者であり、当初は聖人を論破しようと塚原三昧堂へ単身乗り込んでいる。
 大佛(おさらぎ)次郎の小説『日蓮』では、たちまちひれ伏すことになった阿佛房に、聖人は「島へ来て初めて口をきいてくれたあなたに、私の方から礼を申さねばならぬ」と語りかける。実際のやり取りはどうあれ、この出会いを機に阿佛房は佐渡国第一の大信者となった。聖人に味方すれば命も危うい状況にも関わらず、妻千日(せんにち)と密かに食事を運んだことが、後に書かれた千日尼への書状『女人成仏御書』に感謝の言葉とともに綴られている。
 阿佛房夫妻の献身的な給仕は、聖人が一谷、鎌倉、身延山へ移った後も変わらず、特に健脚の阿佛房は身延へ三度も登詣(とけい)給仕を果たしている。三度目の登詣の時(弘安元年〈1278年〉)、日得上人は90歳。しかも、聖人に開眼を願い出ようと祖師像を背負って登ったというから、驚くべき丈夫な身体の持ち主だ。そして下山後、自邸を寺として開いたのが「阿佛房」と呼ばれる妙宣寺の起源だ。
 夫妻が存命の頃、寺は今より約6キロ北の金井新保(かないしんぼ)にあったが、二度の移転で現在地の雑太(さわだ)城跡へ。佐渡で18代続いた本間惣領家の本城跡とあって、壮大な雰囲気だ。江戸初期の茅葺き仁王門をくぐると、県下唯一の五重塔(国重要文化財)に迎えられ、やがて大きな本郭へ至る。一面に芝生が広がる中、十二間四面の大本堂をはじめ、祖師堂、茅葺きの大屋根を持つ庫裏、宝物殿などが立ち並び圧巻だ。阿佛房夫妻の篤い信仰が伺える宗宝や文化財に指定されている宝物も多い。
 日蓮聖人が教義を極め、数々の大信者を生んだ佐渡は、まさに聖人の魂魄(こんぱく)が宿る島。配流から750年の令和2年(2020年)に続き、令和3年(2021年)は『開目抄』執筆750年、そして聖人御降誕800年という大きな節目である。聖人の見た風景を探して旅すれば、いっそう特別な思い出になるだろう。

古色蒼然とした茅葺き門と五重塔
県下唯一の五重塔。日光東照宮のそれを模したと伝わる
江戸末期に再建された大本堂と茅葺きの庫裏
御首題にも「阿佛房」の銘が入る
  • 霊跡本山 塚原山 根本寺(つかはらざん こんぽんじ)新潟県佐渡市新穂大野1837 TEL.0259・22・3751 8時~15時30分(4月~10月は~16時30分) 入山300円
  • 霊跡本山 妙法華山 一谷 妙照寺(みょうほっけざん いちのさわ みょうしょうじ)新潟県佐渡市市野沢454 TEL.0259・52・2435 境内自由(内拝は要事前連絡)
  • 本山 蓮華王山 阿佛房山 妙宣寺(れんげおうざん あぶつぼう みょうせんじ)新潟県佐渡市阿仏坊29 TEL.0259・55・2061 8時~16時 拝観無料