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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

山本昌広(1965~ )

プロ野球選手。ケガを克服、自らを磨き少年に夢を与える中日ドラゴンズ背番号34。

昭和30年代後半から、40年代にかけて流行ったキャッチフレーズに

   巨人 大鵬 玉子焼き

というのがあった。とにかく相撲は大鵬(たいほう)。プロ野球は川上哲治率いる巨人軍が強かった。V9を達成した巨人のメンバー・堀内恒夫投手(日蓮宗檀徒)に憧れてプロ野球選手となった男児が昭和40年8月11日、神奈川県横浜市(小学校6年の時、茅ヶ崎市に移る)に生を享ける。中日ドラゴンズ背番号34、山本昌広投手である。

昭和58年の夏、日大藤沢高校のエース山本少年は神奈川大会ベストエイトで散った。高校卒業後、日本大学で野球を続けようとする大型左腕にプロが注目、ドラフト会議で5位の指名を受け、中日ドラゴンズに入団することとなる。同期のプロ入団選手には、ヤクルトの池山、大リーグ・メッツに入った吉井等がいる。

昭和59年中日入団後、2軍でのハングリー生活が始まる。高校からのプロ入団の場合、5・6年で頭角を現さなければ、退団を余儀なくされてしまう。山本投手は黙々と2軍で鍛えた。その甲斐あって1軍昇格が見えるところまでくる。ところが、1軍昇格間近となると、決まってケガに悩まされる春が3年も続いた。

昭和62年の初夏、日蓮宗との出会いが生まれる。ある針治療院に通うこととなった山本投手、治療院の先生から声を掛けられる。

「お前さん、エー身体しとるのに、どうしやぁた」

「いつも春になると故障するんですよ」

「ホー、それは不思議だわ。そうだわ、私がいい人を紹介してあげるでよ。会ってみやぁせ。坊さんだわ」

「お坊さん!」

「とにかく、悪いことはなやぁでよ。いってみやぁせ」

治療院の先生の強い勧めで、早速、山本投手は愛知県七宝町にある日蓮宗の寺を訪ねた。日蓮宗瑞圓寺である。住職は佐々木学友師(平成元年12月遷化)であった。

「どうしなすった」

「はあ、私が通っている治療院の先生が坊さんに会って相談してこいというもので来ました。どうしてもけがを治して1軍で投げたいのです」

「そうか。信じるのも、続けるのも、君次第だが、ご先祖さまの供養をしなさい。私も一生懸命に祈るから、君もお題目を唱えなさい。きっといいチャンスが来るよ」

佐々木住職からご宝前の祀り方を教えられ、毎朝祈りをささげるように、と山本投手は言われた。山本投手は素直に応じ、毎朝の祈りが始められた。プロですべてをかけるために。

摩訶不思議とはこういうことをいうのであろうか。毎日続けていると、ケガは見る間に治り、後半戦の1軍での3試合に投げる機会を得た。ところが、年が明けた2月、大きな転機が訪れる。

昭和63年の早春、中日は大リーグ・ドジャースのホームタウンであるベロビーチ(カリフォルニア州)で、キャンプをはった。後半のキャンプは沖縄で行われたが、山本投手をドジャース傘下の教育リーグ1Aで鍛えることが決定される。球団の命に背くわけにはいかない。沖縄から一時名古屋に帰り、アメリカへ飛ぶ前に、佐々木住職を訪ねた。

「住職! 2日後アメリカへ行くのですが、どうでしょう」

「ウーン、方角は良くないが、一生懸命何事にも挑戦することだ。祈りを続けることだ『変化(へんげ)の人』が現れるよ」

翌々日、山本投手、始めのうちはヤル気をなくしていたという。1軍での登板機会が与えられないということなのだ。山本投手が落ちこんだとき、『変化(へんげ)の人』が現れる。ドジャースのオマリー会長の補佐役アイク生原氏(56歳で他界、年1回の墓参を山本投手は欠かさない)であった。アイク氏は山本投手を励まし、スクリューボールを投げるよう勧めた。後にスクリューボールは、山本投手の大きな武器となる。

毎日バスでの長距離移動、連日にわたるハンバーガーの食事。そんななか、山本投手は1Aで投げに投げた。結果、8月上旬までに13勝。久しぶりにロスの宿舎に戻った時、日本から一本の電話があった。

「山本! 優勝に貢献するためすぐ帰国しろ!」

というものだった。待ちに待った日本への帰国。8月半ば、名古屋に帰ると、早々に登板した。8月30日、対ヤクルト線で初完封勝利。周囲注目のなか、魔球スクリューが冴え見事に決まった。勝利ごとに山本投手は佐々木住職に奉告し、その数は5回となった。中日はこの年リーグ優勝し、日本シリーズ(4勝1敗で西武)では秘密兵器といわれた。

平成元年9勝、同2年10勝、同4年13勝。そして、17勝5敗で最多勝利と最高防御率に輝いた平成5年から、毎朝の読経の修行が始まる。連続して敗け、悶々としている時に友学師の後を継いだ法嗣(ほうし)・友肇(現住職)から経本が届けられた。ご先祖の回向供養をするため、焦ることなく精神を集中させるため、友肇住職はお経を読むことを勧めたのであった。 “続かないことに手をつけない” をモットーとしている山本投手であったが、法華経を読む日課をすんなりと始めてしまったのである。すると、不思議に勝ちだしたという。

方便品(ほうべんぽん)・自我偈(じがげ)・神力偈(じんりきげ)・観音偈(かんのんげ)を読み、お題目を5分ほど唱える。この朝のお勤めは今日まで続いている。山本家では山本投手のお勤めの後に朝食が始まる。そして、山本投手が登板の時、有美子夫人は夫の勝利を願ってご宝前にお線香を上げるという。

平成7年、試練が再び襲う。春ごろから膝に違和感を覚え、登録と抹消を繰り返し、挙げた勝ち星は僅かに2つ。年末に選手生命を賭けて手術に踏み切った。手術後、復帰を願い山本投手は毎朝ご宝前で祈り続けた。翌年はまだ術後の痛みが残り7勝9敗という成績に終わったが、山本投手は満足であったという。 “マウンドに立てた” という喜びでいっぱいだったのである。平成9年には完全復活、18勝をあげて3度目の勝利をあげ、おしもおされぬプロ野球を代表する選手となった。

平成元年から山本投手が続けている陰徳がある。名古屋で催されるフランチャイズゲーム全試合に子ども10名を招待していることである。少年野球チーム、身体障害者、孤児の子どもたちに野球観戦のプレゼントを続けているのだ。時には、招待した子どもたちの前に姿を現して励ましの言葉をかけるという。

法華経には数多くの菩薩(ぼさつ)が登場する。自らを向上させるために行をし、他を救うために行をする菩薩が説かれる。法華経は菩薩行のお経である。山本投手は自らを磨く祈りの行をし、少年たちに野球の夢を与える布施行をする。まさに菩薩行の一分といってよかろう。山本投手が尊敬する野球人は、広島東洋カープの大野豊投手(平成9年引退)だという。その理由は、常に節制を心掛け、人格的にも素晴らしいからだそうだ。4度目の最多勝利を目指し、ガンバレ! ガンバレ! 山本昌広!