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お坊さんのお話

吉田弘信常任布教師法話「いのちに合掌」H24/3/28

吉田弘信師は、平成29年12月19日をもちまして、常任布教師を退任されました。
長年のご協力誠にありがとうございました。

吉田弘信師常任布教師プロフィール:石川県金沢市全性寺住職

【座右の銘】
柔和質直者

【お題目】

本日は皆様ご苦労様でございます。
私は金沢全性寺の住職で吉田と申します。
今日は石川一部檀信徒研修会ということで若い方の参加が多いと聞きまして楽しみにして参りました。
先程、お経の稽古をなさっていましたけれど、初めてお経を読まれたような若い方もいらっしゃったようですが、分かりましたか、難しいですよね。漢字で書かれたお経は難しい。
しかしですね、お釈迦様の教えというのは、本当のところは易しく説かれております。

今日いらした8人の若い方の中には高校や大学を受験なさった方がいらっしゃるそうですけれども、第一志望校に皆さん入られましたでしょうか。
そうですか、残念でしたね、思うようにいきませんね。その思うようにいかないということをお釈迦様は苦だと、苦しみだとおっしゃったわけです。
皆様方もご経験があるかと思いますが、
「いい学校に行きたい」、それもダメ。
「お金が欲しい、小遣いもっと欲しい」、それも思うようにならない。
「大きな家に住みたい、立派な車が欲しい」と思っても思うようにならない。
「憎らしい人、嫌な人と一緒に座りたくない」と思っても隣同士になってしまう。
「病気をしたくない、年を取りたくない」と思っても病気をするし、年を取る。
思うようにならない、それをお釈迦様は苦だとおっしゃったわけです。
そしてどのようにすれば、その苦を克服して安らかに楽しく生きることが出来るか、言葉を換えて申し上げますとどうすれば仏になれるかということを説かれたのが、仏の教え、仏教なんです。
鎌倉時代に生きられました日蓮聖人はですね、法華経を信じて修行をする以外に心安らかに生きる道はないと悟られました。
そしてですね、法華経を修行するその肝心は何かというと、お題目を信じ唱えて、全ての人を敬うことだと。国境を越え、肌の色の違いを越え、主義主張や、信仰を越え、男女の別を超え、善人悪人の別を越えて、全ての人を敬うことだ、つまり全ての人々が持っている成仏する可能性・仏性を敬うことだというふうに教えられました。
これこそが合掌の心ですね。
じゃあ、具体的にどうすればいいか。

ひとつ、まず仏様の御加護を深く信じる。どんな不幸にあっても、どんな悲しみ、苦しみ、病気、どんな悲惨な状況に置かれてもお題目を信じて疑わない。いい時も悪い時もお題目しかないと信じきる。それが基本です。

で、二つ目。四恩報謝ということを教えられております。
四つの恩に報いよ、というのが日蓮聖人の生涯を貫くテーマですね。教えです。四恩というのはここに書いて参りましたけれども、一切衆生の恩、父母の恩、国主の恩、三宝の恩ということなんです。これは先ほど申し上げました、「全ての人を敬え」ということと、その心は同じですね。
三宝の恩というのは、仏様の御恩と置き換えてもよろしいかと思うのですが、一切衆生の恩、国の恩、仏様の御恩を返せと言われても私たちに出来っこないじゃないか、と思われるかもしれませんが、日蓮聖人はですね、そうじゃないよ、出来るよとおっしゃっているわけです。
そこで、何からまず手をつければいいか、何が基本なのかというと、親への報恩ということなんです。自分を産んでくれた親、育ててくれた親への孝養というのが基本ですよ、ということなんだと思います。

ここにいる皆さん方もそのうち結婚をなさるでしょう。若いうちに結婚をするというのは、未熟な二人が結婚をして、そして子供を授かって、そして未熟なまま子育てをし、教育をせんといかんわけですよ。
ですからね、いつの世も親というのは概ね未熟なんです。学校の先生もそうですね、大学を出て20歳過ぎで学校の先生になるわけです。未熟な人が学校の先生になって、ものを教えんといかん。
だからね、未熟であるということは時として間違いを犯すということなんです。人間は必ず間違うんですけれども、未熟であれば余計に間違うことが多い。またそこから学ばんといかんのですけれども。
日蓮聖人はですね、未熟な親に対し、孝行せよ、敬え、赦せとおっしゃるわけですよ。

話は突然変わりますが、うちの檀家にですね、校長先生をしている人がいます。で、その先生は優秀で京都大学を出て、親が学校の先生だったから、自分も学校の先生になりたいっていって先生になりました。
そして先生になったらすぐ、大恋愛をしまして、その両方の親は大反対。家が釣り合わない、そして母親同士が全然気が合わない、顔を見るのも嫌、口をきくのも嫌、隣に座るのなんてとんでもない、というくらい母親同士が嫌がりましてですね。
「しょうがない、二人で家を出よう」というところまでいきましたら、親の方が折れまして、めでたく結婚したわけです。それでまあその後、母親同士は相変わらず憎み合ってたんですが、順調にいって、その方も校長先生までいかれた。
そうこうしているうちにですね、校長先生の母親が末期のガンになられました。手遅れだと。
余命4ヶ月。で、校長先生は一生懸命その母親の看病やら見舞いやら行ってしましたけれども、奥さんの母親がですね、見舞いに来てくれない。一度でいいから見舞いに来てくれればなあと思って「お母さんお願いしますから見舞ってやってください」と頼もうかとここまで言葉が出そうになったけれども、いやいやそう言ってお母さんに見舞ってもらっても、頼んで見舞ってもらった、という思いが残るから自発的に見舞ってくれるのを待とうと思ってたら、とうとう見舞いに来てくれないうちに校長先生の母親が亡くなってしまった。

それ以来ですね、その校長先生のこの胸には太いトゲが一本刺さっているわけですよ。
そして数年後、今度は奥さんのお母さんがやはりガンになって余命3ヶ月。
ちょうどその頃にお盆でその校長先生は全性寺に、お参りに来られて、
「お上人さんちょっといいでしょうか」と言われるから、
「どうぞどうぞ、なんだったでしょう」って言ってお話を聞きましたら、
実はこんなこんなで、と言われるわけです。
で、「先生、お気持ちは分かるんですけど、もう答えは出てるんでしょう」と言ったら、
「はい」と。
「今までのことは水に流して、覚悟してお母さんが苦しまれないように仏様にお願いすると共に、精一杯の看病をなさったらどうですか」。と申し上げますと、
「分かりました」と言ってお帰りになった。

その先生がどうされたかといいますと、自宅があって病院があって学校がある。自転車で通勤出来る距離なんです。
そこで、「俺が見舞いに行ける日は毎日でも見舞いに行こう、極端なことをいえば、下の世話でも私でよければさせてもらおう」、という覚悟で。本当にほとんど毎日行かれたそうですよ。
2ヶ月頃過ぎた頃ですね、ちょうどいい日和のお昼だったそうですが、先生が行かれたら食事を終わったお母さんがベッドの上に起き上がられまして正座をして先生に手をついて、
「先生、ありがとうございます。そして私はあなたに謝らんといかん。お母さんが病院に入られた時に見舞いに行かんといかんな、行かんといかんなと思いながらとうとう行く機会を失って、亡くなられてしまった。本当に申し訳ないことをした。あれ以来そのことが私の肩にずっしりと重荷となって今日まできましたけど、どうぞ赦してください」と謝られた。
それでまあ、校長先生もここにあったトゲが抜けたわけですね。その後、医者の言う通り亡くなられました。

葬式が終わって四十九日、納骨に来られて、納骨が終わってあと、お膳が出まして、お酒を私に注ぎに来て下さっておっしゃったことが、
「お上人さんに水に流して覚悟しなさいって言ってもらえてよかった。母が喜んでくれたのはもちろん良かったんですけど、家内が喜んでくれました。そして夫婦の絆が深まったと思います。家内の兄弟たちもみんな喜んでくれた。本当にありがとうございました。だけどね、それだけじゃないんですよ」と言われた。
私も一瞬びっくりしましてね、「どういうことですか」と尋ねましたら、
「母が亡くなって、正直言うとほとんど毎日見舞いに行ってましたから、ちょっとだけホッとしました。でもそういうことより母が亡くなって以来、自分の胸があったかいんです。こういう安らいだ気分、気持ち、心持ちになったのは生まれて初めてです」とおっしゃった。

それを聞きましてですね、「私はもしかしたらそういう心の安らぎというのは味わったことないかもね。先生よかったですね」ということをお話したんですけれども、
この話の中でですね、日蓮聖人の教えが偲ばれるんですけれども、

「親は親たらずとも子は子として成すべきを成せ。」

ということが一つ。

「師は師たらずとも、先生は先生たらずとも、弟子は弟子たれ。主君は主君たらずとも家臣は家臣としての役目を果たせ。」

という、そういったことが思い浮かべられます。
四条金吾さんとか池上兄弟に教えられたのはこの辺のことだろうと思います。仏の教えに素直であれ、忍耐せよ、そして赦せと教えられたのだと思います。

「親は親足らずとも子は子たれ。」

なぜそう言われるか。それはね、理由は探せばあるんでしょうけれども、こうする以外に心が安らぐことはないんです。

皆さんに特に若い方にお伝えしときます。世の中というのは、いつの世も悪いんです。お釈迦様の時代にも戦争がありました。釈迦族は滅ぼされてしまいました。で、ずっと世の中というのは大体悪いんです。
しかし、悪い世の中をちゃんと生きてきた人たちがたくさんいる。今の世の中もいいとは言えません、でもあなた方はしっかり生きていっていただきたい。決して世の中に絶望して欲しくないと思います。

二つ目。自分が平凡な人間だと思ったら、どうぞ結婚して出来れば二人や三人の子を授かって育ててください。子供っていうのは可愛いんですよ。でもね、結構に苦労するんです。
でも二人や三人の子供を育てるというぐらいの苦労は味わってください。今は子育てが難しい時代だと言われておりますが、あえてそれは申し上げておきます。

三つ目。親を敬って親孝行してください。親を敬う一つの表れとして、親に対して敬語を使ってください。
そして、「おはようございます、おやすみなさい、いただきます」を言う時には合掌をしてみてください。あなたが変わると親が変わってくれると思います。

ここにいられるお年を召した方にお願いいたします。自分の過去を振り返り、悔やまれることがあったとしても、そして未熟であっても、忸怩たる思いをいだきながらでも、間違があれば指摘し、正しいことを教えてやって下さい。
自分が出来てなくっても正しいと思ったことは子や孫にこうせえと教えてやらんといかんのです。そういう責任があるんです。
どうぞ正しいと思ったことを子や孫にお伝えいただきたい。
日蓮聖人は、
「自分自身が仏にならないでいては、どうして父母を救うことができようか。ましてや他人を救うことはそれ以上にできないことだ。」
と教えられています。

皆さんが「為すべきを為して」心安らかなよき人生を送られますように願いまして、私の法話とさせていただきます。

お題目三唱致します。

【お題目】