ざっくり納得法華経のすべて

第1章

プロローグ

序品

【じょほん】

物事には何であっても始まりがある。法華経もしかり、法華経あるいは他の大乗経典も次の言葉から語られる。

如是我聞(にょぜがもん)「かくの如きわれ聞けり」

我とは、常にお釈迦さまに侍した阿難(あなん)のことである。伝えるところではお釈迦さまが没した後、マガダ国の首都である王舎城(おうしゃじょう)郊外に五百人の比丘(びく)たちが集まり、第一結集(だいいちけつじゅう)という仏典の編集会議が開かれた。この時、摩訶迦葉(まかかしょう)が座長となり、十大弟子の二人阿難と優波離(うぱり)が編集責任者となった。

しかし、その前日まで阿難は悟り、阿羅漢(あらかん)に達せず結集の開催が危ぶまれたという。何故か。それは「聴きすぎた悲劇」というべきものであった。
阿難は常にお釈迦さまに侍し、対機説法を一番聴いた弟子である。それ故に迷いが生じ、なかなか悟りに至らなかったといわれる。
さて、これから説かれるであろう大法を期待して、人間だけではなく、ありとあらゆる階層の方々、一万二千の大比丘たち、二千の声聞、六千の比丘尼、八万の菩薩、梵天などの諸々の天子、八大竜王などの神々、極悪人といわれた阿闇世王も聴衆として、王舎城近郊にある耆闍崛山(ぎしゃくつせん)*1を会座に集まった。

仏教の素晴しさのひとつに、人間だけに対して法を説くのではなく、私たちから見える方々、見えない方々、ありとあらゆるものを対象にしていることにある。全ての階層に対して法を説き、全てのものに大慈悲心をもって救うお釈迦さまの姿勢の現れと受けとれる。

お釈迦さまは『無量義経』を説いた後、静かに「無量義処三昧」という瞑想の境、全てを差別しないという瞑想の境地に入っていた。これを契機として、さまざまな不思議な現象が現れる。これを「此土六瑞(しどろくずい)」、「他土六瑞(たどろくずい)」という。

この二項目の現象は、これから素晴しい法が説かれるというプロローグ、端緒に他ならない。これより、お釈迦さまが大法である法華経を説こうとされている前段と受け取れる。先ず、この地球上で起こった奇瑞「此土六瑞」のなかにあって「放光瑞(ほうこうずい)」、お釈迦さまの眉間白毫(みけんびゃくごう)から光が放たれ、遥かなる東方世界*2を照らされる。この「放光瑞」が最も大切な奇瑞ともいわれる。そして、地球外の他の世界でも「他土六瑞」という奇瑞を起こされる。

この現象は、何を意味しているのであろうか。それはこの地球だけでなく、全宇宙的な世界のなかで真理の大法、それも東方の過去を照らしたということは、未来にも通じる三世にわたっての真理、法華経が説かれようとしていることを表わす。
序品は前述したように「如是我聞」で始まるが、その進行役となった方が、文殊師利菩薩と弥勒菩薩である。

文殊師利菩薩は、しばしば『三人寄れば文殊の智慧』といわれるように、智慧の徳を有した菩薩として有名な方である。最近では、原子力発電に関わる名前としても用いられている。

弥勒菩薩は、補処(ふしょ)の菩薩ともいわれる。お釈迦さまが亡くなられた後の次の世、五十六億七千万歳の後世に出現されて人々を救うことを約束された方である。京都広隆寺に格護されている国宝の半跏思惟(はんかしゆい)の弥勒菩薩像は、人を魅せるに充分なお姿であろう。

弥勒菩薩は、お釈迦さまの眉間の白毫から放たれた不思議な光、そして照らし出された情景について文殊師利菩薩に尋ねる。すると、文殊師利菩薩は「過去世において多くの仏が説法した時も、このような光景があった後に大法が説かれたのであるから、きっとお釈迦さまは妙法蓮華経という大法をお説きになるに違いない」と返される。
日蓮聖人はこの説相に対し、その特色を次のように語られる。

比丘は二百五十、比丘尼は五百戒、声聞は四諦、縁覚は十二因縁、菩薩は六度。譬えば水の器の方円に随い、象の敵に随って力を出すがごとし。法華経はしからず、八部四衆皆一同に法華経を演説す。譬えば定木の曲を削り、師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし。*3

諸経ではそれぞれの能力に応じてさまざまに法が説かれているが、法華経はそうではなく、諸天、神々、男女、僧俗、見えるものと見えざるものを分けへだてすることなくストレートに法が説かれているとされるのである。
法華経は全ての人々、ありとあらゆる階層を対象とする、とその序章から宣言されているのである。


*1 霊鷲山(りょうじゅせん)
*2 東方は過去を表す
*3 原文は漢文『諸経与法華経難易事』定1751頁

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