激動の生涯を駆けた日蓮聖人の心にはいつも故郷の景色と両親や恩師への思慕があった。降誕800年の節目に、聖人の原点を旅しよう。
聖人の生まれ故郷、小湊へ
令和3年(2021年)2月16日、日蓮聖人が800回目の誕生日を迎えるその日、聖人の故郷、千葉県鴨川市小湊を訪ねた。
小湊には、建治2年(1276年)に日家(にけ)上人と日保(にほ)上人が聖人の生家跡に創建したという誕生寺がある。初めは「片海」と呼ばれた浜辺に位置していたが、17世紀以前に起こった大地震や津波によって境内地が海に沈んでしまい、現在の高台へ移転されたという。
聖地、誕生寺では、降誕800年の特別な節目を祝おうと、日蓮宗の僧侶や地元住民らが新型コロナウイルス対策を徹底しながら心尽くしの慶讃大法要を開催。関連行事も15日〜17日の3日間行われた。なかでも、関東地方屈指の規模を誇る祖師堂に声明や御題目が響き渡る様子は、心洗われる荘厳さだった。また、青蓮華をかたどった青い照明や、竹灯籠の温かな明かりが灯された、参道の安らいだ雰囲気も記憶に残る。
境内を散策中、老松の傍らにたたずむ可愛らしい少年像が目に留まった。聖人12歳の御幼像だ。聖人は12 歳で仏門に入るまで、この地でどんな風に育ったのだろう。父は遠江から流された武士の貫名氏といわれるが、御遺文には「海人(漁師)の子として生まれた」とある。小湊は、静かな入り江を囲むのどかな漁村。浜を駆け、海に潜り、のびのびと育つ少年の姿が目に浮かんだ。
地元では、誕生時に現れた三つの吉兆「三奇瑞(さんきずい)」が語り継がれている。庭先から泉が湧き(誕生水)、浜に青蓮華が咲き(蓮華ヶ淵)、真鯛が海面を群泳した(妙の浦)と。聖人は両親に深く愛され、太陽の子「善日麿」と名付けられた。
宗派や国境も超える誕生寺詣で
妙の浦の話には続きがある。海面に現れた鯛の群れはその後、本来の生息域ではないはずの浅瀬の妙の浦に居付くようになったのだ。海を熟知する漁師もよほど驚いたのか、不思議な鯛を日蓮聖人の化身として禁漁保護し、何百年と経った今も守り続けているという。小湊の人々にとって「日蓮さん」は宗派を超えた尊い存在なのだ。
小湊は、風光明媚な信仰の町として旅人にも愛されてきた。水戸黄門でおなじみ、水戸光圀の和歌「小湊の妙の浦風波もなく 潮満ち渡る法の源」をはじめ、多くの詩歌に詠まれ、能楽の謡曲にもなっている。誕生寺が安房国の名所として、信者に限らず広く親しまれているのもうなずける。
近年、その輪は海外にも広がっている。2月16日の大法要は各国をオンラインで繋ぎ、世界規模で営まれた。日蓮宗の菅野日彰管長は、「戦争が絶えず、疫病が世界中に蔓延するこの時に宗祖降誕800年の節目を迎えたことは偶然とは思えない、使命を感じる」と語り、法華経による世界平和を訴えた。
大法要を見守るように須弥壇の上に鎮座していたのは「蘇生願満の聖人像」だ。この像は、本物の衣を着せられるように裸形で作られた生身(しょうじん)像で、貞治2年(1363年)造立の歴史ある像として知られている。「蘇生願満」の名は、聖人が息絶えたばかりの母を法華経の祈りで蘇生させたことに由来している。それにしても、ほほ笑みを浮かべた温かな表情が印象的だ。親や師への恩に報いる「孝の道」を示しているのだろう。このような特別な日だけでなく、御開帳は毎日受け付けている。朝6時30分からの法話は参加自由なので、早朝参拝もおすすめだ。
立教開宗の聖地、清澄寺
小湊の隣町、天津から山道を上ること約6キロ、清澄山(きよすみやま)の山上に開かれた清澄寺(せいちょうじ)に着く。今から約1200年前、人々から「不思議法師」と呼ばれた一人の僧侶が千光を放つ霊木で虚空蔵菩薩像を彫って修行したことが寺の起源とされている。その後、天台宗、真言宗を経て、昭和24年(1949年)に日蓮宗へ改宗されていくのだが、日蓮聖人が生まれた頃は天台密教の山岳寺院として隆盛を誇っていた。
聖人は12歳の時、ここで初めて仏門を叩き、生涯の恩師となる道善房(どうぜんぼう)と出会う。16歳で得度出家すると、日本一の知恵者にならんと虚空蔵菩薩像の前で21日間断食修行し、鎌倉や比叡山などへ遊学。そして32歳で戻り、ついに立教開宗を宣言するのである。清澄寺は、聖人の仏教人生の原点であり、日蓮宗はじまりの地でもあるのだ。
それほどの聖地でありながら、法華信者は入山すら許されない時代が長く続いた。それが、大正12年(1923年)に奇跡が起こる。当時の日蓮宗管長、日辰上人の夢枕に二度も立った菩薩のお告げを発端に、まるで千年の雪が溶けるように山門が日蓮宗に開かれて、聖人の銅像が建てられることになったのだ。場所は山頂の「旭が森」。ここで、32歳の聖人が太平洋から昇る朝日に向かって初めて「南無妙法蓮華経」を唱え、立教開宗を宣言したとされる。
日辰上人の夢枕に現れた菩薩は、大堂に祀られている本尊の虚空蔵菩薩である。その胎内には、不思議法師によって彫られ、若き聖人が日本一の知恵者にならんと願掛けをした、創建当初の虚空蔵菩薩像が収められているそうだ。銅像建立の真の発起者として、篤く信仰されている。
令和4年(2022年)8月30日には、銅像建立から100年の節目を迎える。その頃には、車いすでも登頂できるスロープが新しく完成予定だ。雄大な山並みの向こうに海を望む景色はきっと、聖人の時代からさほども変わっていないだろう。聖人を修行時代から見守ってきた本尊虚空蔵菩薩や千年杉、恩師道善房の墓にも手を合わせたい。朝の勤行は7時〜。参籠、写経体験、宝物館は要問い合わせ。
聖人の父母が眠る両親閣
立教開宗して新たな一歩を踏み出した日蓮聖人だったが、そこからはまさにいばらの道。周囲から怒濤の反発と弾圧を受けたのだ。そんな中、わが子の身を案じながらもその教えに聞き入り、最初の信者となったのが小湊の両親だった。聖人は、父の貫名次郎重忠に「妙日(天に日輪ある如く)」、母の梅菊に「妙蓮(蓮の如く清く)」の法号を与え、自らはそこから一字ずつをとって「日蓮」とした。
立教開宗から5年後の正嘉2年(1258年)に父の妙日が逝去すると、墓の傍らに結んだ庵で母の妙蓮が暮らし始めた。さらに文永元年(1264年)、妙蓮が亡くなった時は、直後に駆けつけた聖人の蘇生祈願によって息を吹き返し、寿命が4年も延びたといわれている。その母も亡くなると、聖人は二人の廟所を寺にした。それが両親の名を冠した妙日山 妙蓮寺だ。
大小数え切れないほどの法難に遭いながら波瀾万丈の生涯を送った聖人だが、心にはいつも両親があり、「一切善根の中には孝養父母第一にて候」と常々、孝の道を説いていた。そして入滅の間際までここへ墓参りがしたいと話していたという。
「両親閣」の名で親しまれている妙蓮寺は、誕生寺のすぐ近く。誕生寺詣での際に「まずは御両親にお参りを」と立ち寄る人が多い。受付で参拝申込みをし、両親閣御廟堂で線香をあげて合掌した。御廟を目の前にすると、聖人親子の深い絆がしみじみと感じられる。渡り廊下で繋がった感応堂には、蘇生祈願ゆかりの霊木で作られた聖人親子三体像が祀られており、その表情は三体ともに穏やかで温かい(御廟参拝と御開帳の申し込みは随時受付)。境内には、聖人が父の冥福を祈って植えた「広布梅」、母の蘇生を記念して植えた「蘇生桜」(現在五代目)も。花の見頃に訪れるのもおすすめだ。
殉教精神と孝道の日澄寺
小湊の誕生寺から車で10分、天津にある日澄寺にも立ち寄った。文永元年(1264年)の小松原法難において殉教した天津領主・工藤吉隆の館跡として知られている。
吉隆は、日蓮聖人が伊豆へ流されていた時、法華経の教えを綴った消息文『四恩鈔』を書き送られており、四条金吾らと同様に近しい檀越だったとみられている。31歳の若さで亡くなっており、もし長生きしていたらもっと多くの教えを受けたはずであり、早逝が惜しまれる。
小松原法難は、聖人が吉隆の館へ向かう道中に起こった襲撃事件だ。聖人は額に刀傷を受け、お伴の弟子の多くも重軽傷を負った。弟子の一人、鏡忍坊は討死。吉隆は数人の家来とともに駆けつけて応戦し、命をかけて聖人を守った。絶命の間際に吉隆は、「もうすぐ生まれるわが子を弟子に」と聖人に遺言し、給仕の夢を子に託したという。聖人は吉隆を出家の礼をもって弔い、「妙隆院日玉」の法号を授けた。
翌文永2年(1265年)、聖人が再び房州を訪れた際、随行の日澄上人が工藤家の菩提寺である真言宗の寺の住職を論破して改宗。日澄上人は、日蓮聖人を開山と仰ぎ、殉教した日玉上人を二祖とし、自らは三祖となった。そして法難から18年後、菩提寺を吉隆の館跡である現在地に移転したのが、吉隆の忘れ形見、日隆上人である。
日隆上人は、孝道をひたむきに実践し、吉隆の不惜身命(法のために身命を惜しまない)の精神を弟子や信者に伝えていった。本堂脇には近年立派に再建された吉隆の墓があり、そこには「身軽法重 死身弘法(身は軽く法は重し 身を死(ころ)して法を弘めよ)」と刻まれている。「身命を軽く」という言葉の裏には、法華経が弘まればその死はかえって重くなるという意が含まれているそうだ。本堂前の鐘塔には、先代住職が母を思って建立した慈母観音像が祀られている。孝養の心が脈々と今日の日澄寺に受け継がれていることを実感した。