ざっくり納得法華経のすべて

第12章

成仏は法華経にあり

提婆達多品

【だいばだったほん】

第10章法師品(ほっしほん)第11章見宝塔品(けんほうとうほん)において、お釈迦さま入滅後の“末法の衆生救済”という大事業が幕を開け、お釈迦さまは「私の滅後に法華経を弘めていく者はいないか、誓いを立てよ!」と、三度にわたって要請されました〈「三箇の勅宣(さんかのちょくせん)」〉。

ただ、同時に強調されたのが、滅後に法華経を弘めることは決して易しいことではない、いや非常に大きな困難が伴うものだ、ということ。それを覚悟の上で誓いを立てるよう、ねんごろに諭されたお釈迦さまでしたが、そこまで大変な事業であると繰り返し宣言されると、やはりどうしても躊躇してしまうものです。

そこで、第11章見宝塔品の「三箇の勅宣」の上に、さらに重ねて法華経を弘める大任を担うよう勧奨していく、それがこの第12章提婆達多品となります。

では、どのような形で、お釈迦さまは誓願(せいがん)をおこすように促されるのか。そこで説かれるのが、この章の二大テーマ“提婆達多の成仏”と“八歳の龍女(りゅうにょ)の成仏”です。

提婆達多
お釈迦さまのいとこであり、お釈迦さまにしたがって出家した提婆達多。

智慧賢くすべての教えをそらんじ、多くの不思議な神通力(じんづうりき)を発揮することができましたが、最も肝心な“信ずる心”がありません。仏道を行じながらも、ねたみや恨みの心が強く、お釈迦さまやお弟子たちの命を狙うなど、様々な危害を加え重い罪を作ったため、生きながらにして地獄に堕(お)ちた“悪人”と伝えられています*1。

お釈迦さまの過去世
このような“悪人・提婆達多”。

これまで、とても救われることはないと、捨て置かれてきましたが、提婆達多品では、過去世におけるお釈迦さまとの関係が明かされます。

はるか昔、お釈迦さまが国王の身であった時、自らの身命も惜しまず法華経の教えを求めていました。そこに、一人の仙人がやってきて、こう申し出ます。「私は妙法蓮華経という教えを知っている。私の意に随うならば、あなたに説き伝えましょう。」と。王はこの言葉を聞いて大いに歓喜し、仙人に給仕すること千年にわたりました。その間、法を求める志を失うことなく、常に喜びのこころをもって、心も身体もすべてを尽くしました。

悪人成仏
この時の国王とはお釈迦さま、仙人は提婆達多です。提婆達多が善知識(ぜんちしき)であったからこそ、仏となり、そして多くの衆生を導き救うことができたと、提婆達多との過去世からの繋がりが明かされたのです。

この過去世からの繋がりによって、提婆達多は、「天王(てんのう)如来」となるという成仏の保証〈授記(じゅき)〉がなされ、悪人・提婆達多にも仏となる道が開かれます。

八歳の龍女~女人(にょにん)成仏~
ここで話題が一変、後半からは、もう一つのテーマ“八歳の龍女の成仏”へと進んでいきます。

海中において常にただ「妙法蓮華経」を説き、多くの人々を導いてきた文殊師利(もんじゅしり)菩薩。この文殊菩薩に、智積(ちしゃく)菩薩から、この法華経の教えによって速やかに仏となった者がいるでしょうか、という問いが発せられます。そこで登場するのが、八歳の龍女です。

娑竭羅(しゃから)龍王の聡明な八歳の娘が、能(よ)くこの法華経を受持して仏となった、“即身成仏”の実例として挙げられたのです。

しかし、それを聞いた智積菩薩も、智者である舎利弗(しゃりほつ)も、畜生の身、かつ女性の身であり、さらに八歳という幼い龍女が、わずかの間に仏となったことを、とても信じられません*2。

そこで、この場に現れた龍女が、その疑いを晴らすべく、論より証拠に、たちまちのうちに仏となって、仏の荘厳を備え、人々のために法華経を説いたのでした。

法華経のすばらしさ~「二箇の諫暁(にかのかんぎょう)」~
大悪人の象徴であり、地獄の世界を代表する提婆達多、畜生界の代表であり、かつ女性・幼齢という難条件をもった八歳の龍女。

法華経以前の教えでは、嫌われ、捨てられ、成仏が許されなかった二人が、この章において、ともに仏となることが説き明かされます。

では、この二人の成仏は何を意味するのでしょうか。なぜ仏となることができるのでしょうか。

悪人提婆達多の成仏は、ただ提婆達多一人の成仏を示すものではありません。提婆達多の成仏は、すべての悪人の成仏を意味するものであり、地獄の底に沈み苦しむすべての者が救われることを表しています。

龍女の成仏もしかり。一切の女人の成仏を表すものであり、その身のまま今すぐ仏となる“即身成仏”の現証を示したものであります。

ともに、一つの例を挙げ、それによって、すべての悪人・女人が、地獄の世界・畜生の世界の衆生が、仏となることができることを示されているのです。

これらの者が仏となり、救われるのは、ただ法華経のすぐれた働き・法華経の力にほかなりません。すべての衆生を何とかして今すぐ仏となそうという、お釈迦さまの大きな慈悲のこころから説かれた法華経によって、はじめてすべての者が仏となることができるのです*3。

法華経でなければ誰一人として仏となることはできず、真の救いもない。そうであるからこそ、お釈迦さまが入滅された後も、この法華経を弘めていかなければならない。それがいかに難事であっても。

日蓮聖人が「宝塔品の三箇の勅宣の上に、提婆品に二箇の諌暁あり。」*4と、この章を位置づけられているように、法華経のすばらしさ・功徳の大きさを強調して、重ねて誓いを立てるよう強く求められているのです。

 

注釈

*1 日蓮聖人も「提婆達多は六万八万の宝蔵ををぼ(覚)へ十八変を現ぜしかども、此等(これら)は有解無信(うげむしん)の者なり。今に阿鼻大城(あびだいじょう)にありと聞く。」(『法華題目鈔』昭和定本日蓮聖人遺文392頁)と述べられています。

*2 当時のインドでは、「五障(ごしょう・いつつのさわり)」といって、女性は、梵天王(ぼんでんのう)、帝釈天(たいしゃくてん)、魔王(まおう)、転輪聖王(てんりんじょうおう)、そして仏にはなることはできないと考えられていました。舎利弗も当時の通念から疑いの心を生じたのでした。

*3 『開目抄』の有名な一節「今法華経の時こそ女人成仏の時、悲母(ひも)の成仏も顕(あら)われ、達多(だった)の悪人成仏の時、慈父(じふ)の成仏も顕わるれ。この経は内典(ないでん)の孝経なり。」(昭和定本日蓮聖人遺文590頁)に、これらのことが集約して説き示されています。

*4 『開目抄』昭和定本日蓮聖人遺文589頁

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