第20章
●末法弘通の先例
常不軽菩薩品
【じょうふきょうぼさっぽん】
これまでにも説かれてきた、法華経をすなおに信じる者の功徳と謗(そし)る者の罪。特に先の第19章法師功徳品(ほっしくどくほん)では、この経を受持し読誦(どくじゅ)すれば、六根清浄(ろっこんしょうじょう)の功徳がその身に具わることが具体的に示されました。
本章では、その実例を、お釈迦さまの過去世の菩薩行で語られていきます。
そこで登場するのが、本章のタイトルともなっている常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)。はるか遠い昔、威音王仏(いおんのうぶつ)という仏さまが入滅(にゅうめつ)した後の像法(ぞうぼう)*1の末、正しい教えも仏さまのこころも失われた世に現れた不軽菩薩が、法華経のこころを身をもって実践し、どのような迫害にもよく堪え忍び、多くの人々を教え導かれました。
このような時代に、どのような教えを、どのような方法で弘めていくか、末法における法華経弘通(ぐづう)のあり方が説かれていく、これがこの第20章常不軽菩薩品となります。
次章、如来神力品(にょらいじんりきほん)において地涌の菩薩に法華経が付属される、その直前に本章が説かれたのもワケあってのことで、日蓮聖人はこの法華経をお題目と受けとめられ、不軽菩薩のこころと態度を末法弘通の先例として重視されました。
不軽菩薩の振る舞い~但行礼拝(たんぎょうらいはい)~
威音王仏の入滅の後、増上慢(ぞうじょうまん)の者が大きな勢力をもっていた「末法」の世に、一人の菩薩がおりました。
お経を読誦することを専らとせず、見る人ごとに礼拝(らいはい)し讃歎してこう述べられます。
「我れ深く汝等(なんだち)を敬ふ。敢(あえ)て軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえ)は何(いか)ん。汝等皆(みな)、菩薩の道を行(ぎょう)じて当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べし〈我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏*2〉」と。
人々から、悪口を言われ、罵(ののし)られ、打たれ、なぐられようともかえりみず、いつも「あなた方を尊敬します。あなた方は仏となる人ですから」と、但(た)だ礼拝の行をつづけ、世間から“常不軽〈常に軽んじない〉”というアダナをつけられ一生を終えようとします。
その時、仏さまが説かれた法華経を聞き、六根清浄となって寿命も延び、改めて人々に法華経を説かれました。その不思議な力*3に心打たれ、今まで軽しめ賤しんだ人々は皆、信伏随従(しんぶくずいじゅう)しました。
しかし、まだその信じる力も弱かったためか、礼拝讃歎したとき軽賤した罪で、千劫(せんごう)の長い間、阿鼻地獄*4(あびじごく)で苦悩を受け、その後、礼拝をうけ聞法した因縁によって、再び不軽菩薩の教化にめぐりあうことができたのです。
この不軽菩薩は現在のお釈迦さまであり、この菩薩を謗った増上慢の人々は、今この説法の場にいる者たちであることが明かされました。
不軽菩薩の二十四字とお題目の五字
ここに説かれた、
- 増上慢の者の多い世にあって、議論を戦わせるのではなく、すべての人に対して、一心に二十四字の礼拝を行った不軽菩薩の単純徹底した崇高の行軌
- それも信念から、どのような目に遭おうとも法華経のこころを実践し受難したこと
- たとえ直ちに信じることができず一度は謗法(ほうぼう〈法を謗る〉)という罪を犯したとしても、法華経との縁は決して滅することなく、必ずその結縁(けちえん)によって救われていくこと
他にも様々ありますが、これらの点には、日蓮聖人の御一代と対照して、多くの共通性を見出すことができるでしょう。
それもそのはず。「このゆえに行者、仏の滅後において、かくの如き経を聞いて疑惑を生ずることなかれ、まさに一心に広くこの経を説くべし。世々に仏に値(あ)いたてまつりて、疾(と)く仏道を成ぜん」とは、この章の結びのことばでありますが、この常不軽菩薩品の中に、末法においてお題目を弘めていく大切な心構えが、重要な模範として示されているからでした。
ここではその中でも特に不軽菩薩の二十四字とお題目の五字との関係についてみてみましょう。
「威音王仏の像法の時、不軽菩薩、我深敬等(がじんきょうとう)の二十四字をもってかの土に広宣流布(こうせんるふ)し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。かの二十四字とこの五字と、その語殊(こと)なりといえども、その意(こころ)これ同じ。かの像法の末とこの末法の初と全く同じ。」云云*5
「我深敬」から始まる不軽菩薩の二十四字とお題目の五字。その語は異なっていますが、そのこころは同じであると、日蓮聖人は捉えられました。
お題目は、すべての衆生(しゅじょう)を速やかに仏となすために、久遠(くおん)のお釈迦さまが大きな慈悲のこころから特別に用意された大良薬です。
一方、先にも示した不軽菩薩の二十四字。これを要約すると、以下のようになりましょう。
1、仏となることを究極的目的としていること………………………
無上(むじょう)の理想
2、一切衆生、みな成仏することができること………………………
平等の理・甚深(じんじん)の理
3、成仏の法は菩薩道であること………………………………………
微妙(みみょう)の法
4、すべての者を礼拝・讃歎・深敬(じんきょう)すること………
身・口・意の三業(さんごう)にわたる実践
すべての者にとって、目指すべき究極的な理想は仏となることであります。そのこの上ない理想は、選ばれた特殊な人のみに限られたものではなく、万人・万物すべてにとっての希望です。
この理想へと到達する道は、万人に開かれ、すべての者を仏となすことのできるすぐれた教え・誰でもよく理解し納得して行うことのできる教えでなくてはなりません。
このような、すべての者を仏となすというこころが、久遠のお釈迦さま・法華経のこころであり、そのこころを疑わず、自ら生命をかけて一心に行っていく不軽菩薩の振る舞いは、1から3の項目を一丸とした深敬であり、讃歎であり、礼拝だったのです。
この無上甚深微妙の法を、自らの身にも口にも意(こころ)にも能(よ)く持(たも)つこと、これが不軽菩薩の振る舞いであり、それはお題目を受持することとまったく同じ意味をもつものであります*6。
現在、日蓮宗の布教方針として掲げている「いのちに合掌」も、この不軽菩薩の二十四字のこころに拠ったものであり、それはすなわちお題目のこころを象徴的に表現したものであります。このようなこころをもって、お題目を受持していくことこそが、久遠のお釈迦さまのこころに叶うものとなるのです。
注釈
*1 仏さまの入滅の後、千年間は正しい教え(法)が広まっていく時代である「正法」時代が、その後の千年間は正法に像(=似)た教え(法)が広まっていく「像法」時代が、そして像法すら衰え、教えはあってもなきがごとく、生きた信仰も修行もなくなる「末法」という時代がその後展開していきます。「像」とは「にる」や「かたち」とよむ字で、寺院等の伽藍は立派に栄えるものの、その中身・本質は衰え失われていく時代となります。
*2 漢文で二十四文字あることから、この一節を「二十四字」と呼んでおります。
*3 大神通(だいじんづう)の力・楽説弁(ぎょうせつべん)の力・大善寂(だいぜんじゃく)を得たと法華経には記されています。ここでは特に、身(からだ)・口(くち)・意(こころ)から発揮される仏さまのもつ偉大な力が強調されています。
*4 八大地獄の一つで、地獄の中で最も苦しみの激しい所。苦しみに間断が無いことから無間地獄とも。
*5 『顕仏未来記』昭和定本日蓮聖人遺文740頁
*6 「今身(こんじん)より仏身(ぶっしん)に至るまで能(よ)く持(たも)ち奉る 南無妙法蓮華経」も二十四字。その字数もその意(こころ)も、不軽菩薩の二十四字と一致しています。