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この人に聞きたい

更新日時:2016/02/12

インタビュー

シリーズ「未来のお寺を考える」①

東京大学大学院インド哲学仏教学研究室 蓑輪顕量教授

「日本の宗教」(春秋社、2007年)、「仏教瞑想論」(春秋社、2008年)などの主著でも知られ、日本の仏教や仏教思想史の専門研究を行っている蓑輪顕量氏。現在の仏教を取り巻く環境や本来の寺院や僧侶の役割をもとに、これからのまちのお寺、そしてお坊さんはどういう存在であるべきかを伺ってきました。

蓑輪顕量 東京大学大学院教授
1960年、千葉生まれ。
東京大学大学院博士課程単位取得退学。
博士(文学)。愛知学院大学教授を経て、現職。
専門は日本の仏教、仏教思想史、著書に『仏教瞑想論』『日本仏教の教理形成ー法会における唱導と論議の研究』など。
1999年日本印度学仏教学会賞、2000年中村元賞受賞。

 

■世界の仏教のトレンドは瞑想 悩みや苦しみからどう脱却するか?が注目されている

編集部)
今、欧米をはじめ多くの国で仏教の教えに注目が集まっているようです。世界ではどのように生活のなかに仏教が取り入れられているのでしょうか?

蓑輪先生)
世界の仏教のトレンドは「瞑想」なんでしょうね。さまざまな宗派でも瞑想を取り入れていて、そうしないと現地の人たちに来てもらえないほどだと聞きます。

なぜ瞑想が今受け入れられているのか。それは普通に生活をしているなかで生じる悩みや苦しみからの脱却が一番の理由だと思いますね。その脱却の手段として、「信仰」による方法と自己を見つめるような「修行」から入っていく方法があります。現在は後者の方法に注目が集まっているようです。仏教では、教えを自分で実践して確認をしていく作業が修行となります。仏教はもともと、日常生活のなかで、みなさんが感じる悩みや苦しみからどのように脱却するのか、に一番関わってきました。

編集部)
世界を見てみると、瞑想にもいろいろなかたちがありますね。

蓑輪先生)
瞑想関連の集団は今いろんなところにできていますね。ミャンマーのマハーシさんやレディ・サヤドーさん、ベトナムからはティク・ナット・ハンさんなど、みなさん心を見つめる瞑想で市民権を得ています。一方で仏教瞑想を、仏教の言葉を借りないで実践しているところも出てきています。アメリカではジョン・カバット・ジンさんの『マインドフルネスストレス低減法』が有名ですね。あとは日本で今流行っているのが※マインドフルネス瞑想です。これは心理学の分野で注目されているもので、脳科学や臨床心理などにも応用されています。こうしてさまざまなアプローチがありますが、どれも現実の世界で感じる悩み・苦しみを具体的にどうやって乗り越えていくのか、というところに焦点が当たっています。

※マインドフルネスは、「今という瞬間へ、一切の評価、判断を挟まない、気づきの状態」です。
マインドフルネス瞑想は、マインドフルネスを養うためのトレーニングです。

■仏教寺院は、その地域の文化伝統を取り入れている

編集部)
仏教を取り巻くそのようなトレンドのなか、世界の寺院ではどのような動きがありますか?

蓑輪先生)
多くの寺院では瞑想のほか、リトリートなど仏教のなかの修行の部分を前面にだして、仏教自体に関心を持ってもらおうというところが多いです。もう少し深く見てみると、寺院ではその国や地域の文化伝統に根付いたかたちのものが、昔から要求されているような気がします。もちろん仏教の教えは大切にしながらというのは前提です。

編集部)
寺院は仏教の芯になるところは押さえながらも、その場所の文化伝統を踏まえて工夫をしていくことが必要ということですね。

蓑輪先生)
そうですね。歴史のなかで仏教の広がり方をたどってみると、例えば東アジア世界では儒教が大きく存在していたので親孝行のような「考」の概念を正面に据えて広めなければなりませんでした。中国では、もともと儒教の「経典を講説する」ということが流行っていたので、仏教も人々に教えを広める場が多く作られたといわれています。それが古代の日本に入ってきたことから、日本の仏教においては、法要など仏法を説くための儀式「法会」はなくてはならないものだ、ということになりました。法会で大事なことはみんなが集まり、仏法を聞いて、体を動かすなどの実践も行うという場があるということです。

■仏教学と仏教は違う

編集部)
では、現代のお坊さんについてなにか思うことはありますか?

蓑輪先生)
お寺が瞑想などの修行を指導ができる場所であるということは大切ですが、お坊さんがその修行の意味を説明出来る必要があると思います。ある時期からお坊さんたちは、自分たちがやっていることの意味をちゃんと説明できなくなった気がします。今流行の高度専門職者の大事な要件として、「自分たちが社会のなかでどういう役割を果たしているのかを説明できる」というものがありますが、宗教者も社会のなかでは高度な専門職者です。自分たちのやっていることの意味・意義を自分の言葉で語れないといけません。瞑想にしても法会にしても、具体的にどういう意味・意義を持っているのかを説明できるということが望ましいですね。

編集部)
高度専門職者であれば、仏教を知識と実践両方から知り、体現していなければならないということですね。

蓑輪先生)
もう亡くなられましたが、前田慧學先生が、仏教を教えることと、仏教学を教えることは違うということも意識しないといけませんとよくおっしゃっていました。現在宗門系の大学が日本各地にありますが、学問研究に傾いているところもあります。仏教学は栄えていますが、仏教そのものが栄えているとはなかなか言えない状況ですね。知識として仏教を知っていても、日常生活に活かす仏教にはいたっていないところが多いです。自分とは関係ないところで学問的に勉強するのだけど、自分の日常のなかに入ってきていないということは、法会のときに自分の言葉で話せないというところにも通じます。

■サンガ(=仏教修行者の集まり)を支える意義

編集部)
東南アジアなどでは熱心にサンガ(=仏教修行者の集まり)を支える文化があります。それはなぜでしょうか?

蓑輪先生)
それは輪廻と功徳を積むというその地域独特の世界観からですね。その地域では、サンガを支えることが善行を積むということになって、亡くなったあとによい方向にいくと考えられています。庶民にとっては功徳を積むための装置のような位置づけでサンガがあります。そして庶民にとって功徳を積めるサンガを国王がきちんと支えてくれているという構図があって、これが国王への信頼にもつながっています。そういうきれいな図式があって動いているんですね。大事なところはその人たちがどんな価値観を持っているか。他者になにかを施すことによって、最終的には自分に返ってきて、自分のメリットになるという感覚が生きています。

あとは、東南アジアの場合は、在家の中から出家者が現れるということです。つまり自分の子どもがもしかしたら出家するかもしれない、というほど身近なので、支えようという気持ちも生まれます。説法のなかにもお布施をすることが社会を支えることにもつながるという内容もあって、それに合わせて功徳を積んでいこうという意識も生まれてきます。それはある意味良質な価値観で、悪いことはしませんし、良い方向に布施をすることが自分だけでなくて、他者のためにもなると考えられます。社会全体にしてみると穏やかな価値観で、うまく機能していますよね。

編集部)
日本では古くから、サンガを支える場所の一つとしてお寺があったわけですが、今ではみんなでサンガを支えるという意識が薄れつつあります。それはなぜだと思いますか?日本のお寺やお坊さんの問題点を教えてください。

蓑輪先生)
お坊さんの資質の問題でもありますが、そもそも日本の仏教がある意味で家族で経営するかたちに変わって、普通の家になってしまったことも原因ではないでしょうか。もちろんお寺さんの師弟のなかにはしっかりと育っている方もいらっしゃいますが、そうでない方も現実にはいます。東南アジア、朝鮮半島、中国、台湾の仏教界は出家社会なので、自分の生活や家族のことは考えずに、社会のこと、仏教のことを考えることができるという時間的・精神的な余裕を持つことができます。

出家でなければできないかというと、そうではないんですが、在家に比べて出家のほうがやりやすいところがあります。在家の場合は、仏教だけでなく自分の家族にも心を向けていくので、そこには高い境地が必要だと思います。

それではなぜ日本ではそのようになったのかというと、平安時代までさかのぼります。その時代、日本仏教のなかに貴族の子弟が入ってきました。その貴族の子弟は優秀な人が多くて、寺院の方でも貴族の優秀な子弟が入ってくるとお寺の繁栄につながると考え、そこから子孫を残してくれたほうがいいということになりました。そこで妻帯をすることにあまり抵抗をもたないようになったという経緯があります。

出家なのか妻帯をした在家なのかというのは、どちらが良いかということではありませんが、日本仏教の大きなテーマですね。出家主義の僧侶と日本仏教の僧侶とでは、その地域の文化伝統の違いによって僧侶に求められる事が違います。そのことを自覚して、日本では日本仏教なりの存在意義を考える必要があるのではないでしょうか。

■これからのお寺は?そして理想のお坊さんとは?

編集部)
それでは、これからのお寺はどのような存在になるべきだと思いますか?

蓑輪先生)
昔のお坊さんたちが実際にどうやって布教をしていたのかというと、いろんなところでお話をする講説を大事にしていました。日本では仏教に触れる場が少なくなっているのでそうした場を作ることが必要になってきます。そのためには仏教に触れるきっかけとして、お寺に人が集まるようなイベント的なことも必要ですね。もちろん人を集めることが目的になってしまうと問題なので、仏教が仏教たるゆえんもしっかりと伝えなければなりません。

多くの人たちが感じ始めているのは、横のつながりが無くなってきているということです。その地域での横のつながりをお寺が間に入って提供してくれると、人は集まってくるのではないでしょうか。

編集部)
最後に現在求められているお坊さんの姿とはどんなかたちだと思いますか?

蓑輪先生)
社会的な役割としては、悩み苦しみから逃れられる指導ができること、そして社会にとっての良質な価値観を提供できるということです。良質な価値観とはどういうものかというのは、難しいとは思いますが、社会はたくさんの人で構成されているので、その方たちを公平に見るところからその価値観を見いだせるのではないでしょうか。

そして価値観をどう伝えるのか。これは私が東大で学んでいたとき、浄土真宗出身であった早島先生がおっしゃった印象的な言葉ですが「あなたたちの後ろ姿を見て、世の中の人たちは仏教を理解するんですよ」ということです。自分自身が良質な価値観を持ち、体現することで他者にその価値観を伝えます。これからのお坊さんは、しっかりと理想のお坊さんとはなにかを考えていく必要がありますね。

編集部)
蓑輪先生の理想のお坊さんはどんな方ですか?

蓑輪先生)
最終的にはお釈迦様になりますが、歴史のなかでいろんな得意分野を見いだして活躍した僧侶の方々がいらっしゃいますね。私は最澄さんの志に感銘を受けました。最澄さんの山家学生式に「道心の中に衣食(えじき)あり 衣食の中に道心なし」というものがあります。御仏の教えを実行する心、これを「道心」といいます。その道心で生活をしていると、何不自由なく暮らすことができますが、自己の生活のことばかりを考えていると、他人への思いやりの心、御仏を信頼する心を忘れ、正しい人間生活を送ることができないということです。日常生活のなかで大事な部分をしっかりと見据えていらっしゃったことがうかがえる言葉です。

理想のお坊さんを考えるうえで、これまで活躍したお坊さんをお手本にすることは大切なことです。多くのお坊さんにはこのことを考えてほしいですね。