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日蓮宗メールマガジン2月号

「正見を得る」

これは今から4年前、私がまだ大学生であった時の話です。

とある講義に出席していた私は、自分の右斜め前の席に座っている男子学生が、講義中であるにも関わらず、机の上に置いたスマートフォンをずっとせわしなく操作しているのに気が付きました。
誰かとメールのやりとりでもしているのか、はたまたゲームでもしているのか、いずれにしても不真面目な学生だな、と私は内心思いました。

すると、教授も教壇から気になっていたのでしょう、ついに講義を一旦ストップしてその学生のもとにツカツカと歩み寄り、
「私の講義中だというのに君はさっきから何をしているんだ。しっかり講義を聞きなさい!」と注意をしました。
一瞬にして教室中は張り詰めた空気に包まれましたが、その学生は
「すみません、先生。でも僕は手で文字を書くのが遅くて…。こちらのほうが早く打ち込めるので、スマートフォンで板書を取っていたんです。それに活字のほうが後で見返した時に見やすいので…」と申し訳なさそうに弁明しました。

それを聞いた教授は、驚いた様子でその学生のスマートフォンをまじまじと覗き込んだ後、感心したように微笑み、こう言いました。
「…なるほど。今は板書もスマートフォンで取る時代になったんだね。怒ったりしてすまなかったね。自分に合った方法でこれからも頑張ってください。」
教室は再び穏やかな空気に戻り、講義は再開しました。

スマートフォンで板書を取るという彼の行動が正しいものであったかどうかはさておき、講義中にスマートフォンを操作していたという事実だけで彼を「不真面目な人だ」と決めつけた自分を私は恥ずかしく思いました。
これまでの自身の生活を省みても、私は人を見た目で判断してしまうことがよくありますが、そういった偏見や思い込みは時に、本来うまく行くはずの人間関係をギクシャクさせてしまったり、かえって自分自身を苦しめてしまうことが多々あります。

お釈迦様は、「正見」(しょうけん)という教えを説かれました。
正見とは、読んで字のごとく「正しい物の見方をする」という一種の修行法です。
言葉にすると簡単そうですが、「正しい物の見方をする」とはすなわち「仏様の眼を持つ」ということであり、我々凡夫には大変難しいものであります。

日蓮聖人は『信心のある者は、学識や才能の低い鈍根であっても、正見を得るのである。』と仰せです。
つまり、信心を持って日々お題目を唱えることで、誰しもが仏様の眼を手に入れることができると仰られたのです。
私達もお題目のお力により浄らかな眼、浄らかな心を持ち、円滑な人間関係を育みたいものです。

【お知らせ】
日蓮宗宗務院伝道部より、今月の予定をお知らせ致します。

1日 月例金曜講話
7日 日興上人会
10日 加行所成満会
14日 妙日尊儀忌
15日 釈尊涅槃会
16日 宗祖降誕会
28日 日什上人会 いのりの日