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日蓮宗メールマガジン5月号

「僧侶は自粛の嵐が吹き荒れる中、カイラクを求める」

どこへ行っても自粛、自粛、自粛。自粛の嵐が日本列島を春一番のように吹きすさんでいる。自粛疲れという言葉が出るくらい、この風が止む気配はまだない。ただ黙ってこの風が止むのを、身を屈めてじっとしている他、方法はないのだろうか?

自粛は 「自ら進んで行いや態度を改めてつつしむこと」

意味だけをみれば、自ら行う行為である。
ただ自粛は、ほかに「自粛を促す」とか「自粛ムード」なんていう言葉も、ニュースなどでもよく目にする。
単に何かすることをやめにする、というだけではなくて、外部からの目(社会の目ともいうべきか)を気にして自分の行いや態度を改めるという時に使われているようである。
自粛というのは自己(内部)と社会(外部)の関係から成り立っている。

じつはこの内部と外部の関係、「戒律」というものの関係によく似ている。「戒」は規律を守ろうとする自己の内部から起こった心のことを言い、「律」は外部から律せられる規範のことを言う。戒律は宗教、宗派問わず様々存在し、戒律が厳しい宗教もあれば戒律が緩やかな宗教もある。また時代により戒律の内容は変容してきた。

戒律の内容が変容してきたと言ったが、詳しく言えば律が時代の変容に合わせて変化してきたと言ったほうが正しい。戒は常に内部、自分が起こす心のことを指すからだ。

では今の日本はどうだろう。律でいえば規範は厳しさを増している。戒でいえば規律を守ろうとする気持ちは個々人で差がある。社会の目もあり、守らざをおえない状況で仕方なく従っているように思える。戒が本来持つ自発的な心は影を潜めつつある。

仏教でも戒に関しては様々言われているが、シンプルなものを一つ紹介したい。

「他者を幸せにしたいとの気持ちを起こすことが戒である。
戒をたもつことで自ら楽しみを得る」

私は戒をもっと辛く厳しいものだとばかり思っていた。戒は楽しむものだったのだ。

他者を幸せにしたいと強く思うことが

戒(カイ)を楽(ラク)しむ

ことになる。

他者を幸せにしたいから、自ら進んで行いや態度を改めてつつしむ。それは楽しみを伴う。

故に今、僧侶である私は広く全ての人にカイラク(戒楽)を求める。

参考資料
龍樹 『宝行王正論』

【お知らせ】
日蓮宗宗務院伝道部より、今月の予定をお知らせ致します。
12日 伊豆法難会
28日 いのりの日