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のんびり行こう ぶらりお寺たび 〜月刊「旅行読売」編〜
のんびり行こう ぶらりお寺たび 旅で出会った名刹で日蓮聖人の教えに触れる。そっと手を合わせ、癒やしのひとときを。

Vol.19 鎌倉(神奈川) 龍ノ口から松葉谷へ、法難の霊跡巡り

聖人が活動拠点にした谷戸(やと)、処刑されかけた浜・・・。『立正安国論』執筆の舞台、鎌倉周辺には聖人の足跡が数多く残る。

龍口法難の霊跡で消難祈願

 初秋の風が心地よい夕暮れ時、神奈川県江ノ島の対岸、龍ノ口(たつのくち)の地にある龍口(りゅうこう)寺へ向かった。この日は、9月11日から13日にかけて営まれる「龍口法難会」の日で、露店が門前の道にまで連なって大変な賑わいぶり。法会が最高潮を迎えるは12日の夕方からだ。
 18時から大本堂で法要と難除けの牡丹餅(ぼたもち)まきがあり、続いて地元や東京、静岡などから集まった約30の講中が次々に万灯(まんどう)を奉納する。団扇太鼓を叩き、纏を振り上げながら夜の境内を進む様子はまるでパレードのよう。参道脇で鈴なりになって見守る参拝者から拍手や歓声があがる。その後、13日の0時から二度目の法要と牡丹餅まきが行われて、法会はようやくお開きとなる。
 法要と牡丹餅まきは近年、参拝者の交通安全などに配慮して夕方にも行われるようになったが、本来は深夜にのみ行われていた。それは「龍口法難」が真夜中の出来事だったことにちなんでいるためだ。
 事の発端は文応元年(1260年)の『立正安国論』奏進にさかのぼる。当時、天変地異や飢饉、疫病などで人馬の死骸が道にあふれるほど乱れていた鎌倉を憂い、日蓮聖人は『立正安国論』を執筆、法華思想に基づく国家と民衆の救済を提起した。しかし幕府はこれを政策への中傷と受け止めた。念仏批判に恨みを抱いた暴徒たちが、鎌倉の松葉谷(まつばがやつ)にあった聖人の草庵を焼き討ちする。この松葉谷法難に始まる弾圧は伊豆法難、小松原法難へと続き、そして奏進から11年後の文永8年(1271年)9月12日、ついに聖人は幕府に捕らえられ、ここ龍ノ口の刑場で処刑されることに・・・。
 刻は翌13日の深夜2時頃。実はまだ幕府から斬首の最終通達は来てなかったが、刑場の役人らは聖人を首の座につかせて容赦のない刀を振り上げた。しかしその時、江ノ島の方から満月ような光が飛んで来るという驚くべき出来事が起こったとされる。役人らが畏れおののいて腰を抜かしているところへ、幕府から処刑中止の決定が届き、聖人は佐渡島へ流罪となった。
 この故事にちなんで、龍口法難会は夜中に行われてきた。また、龍ノ口へ連行される聖人に一人の尼が牡丹餅を供養した逸話から、法要で牡丹餅がまかれるという。
 牡丹餅は近在講中の人々による手作りで、直径1センチ〜2センチと小ぶり。まぶしてあるのは黒ごまだけで甘くなく、食べれば年中息災(消難)になるといわれている。なんと言っても、首の座についた聖人が難を逃れたのだから御利益がありそうだ。江ノ島詣でがさかんになった江戸時代、龍ノ口の奇跡は江戸城下でも大変な話題となり、土壇場で難除けに御題目を唱える人が続出したという話も伝えられている。
 龍口寺はそんな法難の地に建立された。日蓮聖人の入滅後、延元2年(1337年)に直弟子で中老僧の日法上人が刑場跡にやって来て一堂を建て、自作の祖師像と首の座に据えてあった敷皮石を祀ったのが始まりという。大本堂には今も当時のまま敷皮石が安置されている。座布団状のその石は風化が進み凸凹しているが、表面の光沢が参拝者に何百年と撫でられてきた歴史を物語っている。
 2020年は法難からちょうど750年。参拝者も増え、龍口法難会はいっそう賑わうだろう。節目に向けて龍口寺のある片瀬・腰越エリアを盛り上げようと近在の日蓮宗僧侶が力を合わせて開催している年に2回の寺フェス「龍口テラス」も評判を集めている。次の開催は20年4月の花祭りの日。御朱印帳作りなどのワークショップ、境内ツアー、湘南の美味や雑貨を集めたマルシェなど、お坊さんと気軽にふれあえる企画が満載だ。

牡丹餅を宝前に供養する龍口法難会の大法要
法要でまかれる黒胡麻の牡丹餅
五重塔や大書院などの木造大建築も見どころの一つ
日蓮聖人が囚われた土牢が残る
参拝者が絶えない首の座の敷皮石

鎌倉布教の拠点となった比企谷

 龍口寺から江ノ島電鉄に揺られて鎌倉駅へ。そこから歩いて10分も歩けば谷戸の緑に囲まれた妙本寺に着く。「谷戸(やと)」は丘陵地が浸食されてできた谷状の地形のことで、鎌倉の丘陵にはこの谷戸がいくつもひだのように入り組んでいる。その一つ、比企谷(ひきがやつ)にあるのが妙本寺だ。三方を丘陵の尾根や台地にすっぽりと囲まれた谷戸の中はとても静か。鎌倉で最大規模の祖師堂をはじめ、数々の堂宇が緑にとけ込むように佇んで心落ち着く雰囲気だ。この環境を好んで写生に訪れる人や、ヨガや香道など文化活動にお堂を利用する人も多い。
 比企谷は、鎌倉時代に源頼朝の御家人を務めた比企氏が一族で住んでいたことで知られている。しかし、比企氏は北条氏との権力闘争の末に滅亡。生き残りとして幼児期から京都で育ち儒学者となって帰ってきた「大学三郎」こと比企能本(ひきよしもと)が、一族の菩提を弔うため、自邸に法華堂を構えて日蓮聖人に寄進したのが妙本寺の起源だ。
 二人の出会いは建長3年(1251年)、能本50歳、聖人30歳の頃と考えられている。文人として京都で順徳天皇にも重用された能本に日蓮聖人は儒学などを学び、『立正安国論』執筆時には文章的な意見を求めている(『日蓮宗事典』)。そうして聖人の教えにふれた能本は入信して俗弟子となり、一族の供養と聖人の布教活動のために自邸を差し出すほど深く信仰した。
 互いに師であり弟子であった二人の姿を見てみたいと、お像が安置される祖師堂内へ。通常は事前予約が必要だが、年に一度だけ、9月12日は「龍口法難会」として一日ご開帳されている(個人開帳は3000円)。豪華な厨子に祀られている祖師像は、池上本門寺、身延山久遠寺の像と同じ一本の木から彫り出された珍しい兄弟像。三体はいずれも直弟子である日法上人の作で、妙本寺の像は一番古く、日蓮聖人の生前に彫られたものと伝わる。堂内奥にある開基の能本像は、想像していた風雅な文人風ではなく、骨太で力強い顔立ちだ。聖人の病床を聞きつけては身延山を訪ね、臨終の際は池上にも駆けつけたというから、身体の頑丈な人だったに違いない。
 寺名の「長興山妙本寺」は、聖人が龍口法難の後、佐渡島へ流され、文永11年(1274年)に鎌倉へ戻ってきた時に命名したもの。能本の父の法号「長興」と母の法号「妙本」をもって、総勢800人ともいわれる比企一族の供養の心を込めている。男女を問わず皆が救われると説いた聖人に能本は心底感謝したという。
 また、寺の鎮守神である蛇苦止(じゃくし)明神は能本の年の離れた姉、讃岐局の化身とされている。讃岐局は一族滅亡の際、井戸に身を投じて命を絶ったが、やがて蛇に生まれ変わり、敵方である北条氏の娘に取り憑いて苦しめた。そこで聖人は法華経をもって供養し、寺の守り神として祀ったという。蛇苦止堂の傍らには今も井戸が残され、難病治癒に御利益があると参拝者が後を絶たない。
 ところで、その臨滅度時本尊は聖人臨終の枕元に掛けられていたとされる十界曼荼羅で、「蓮」の字が蛇の這うようにくねっていることから「蛇形本尊」とも呼ばれている。これが妙本寺に伝わるのは蛇苦止明神とのご縁もあるが、この寺がそれほど重要な布教拠点であったことに他ならない。日蓮聖人の入滅後、池上本門寺の貫首がここ妙本寺の貫首を兼任する両山一首制が戦前まで受け継がれていたこともその証だ。
 それもこれも聖人と能本との出会いがあってこそ。寺で授与される「大学守」は、大学三郎と呼ばれ愛妻家でもあった能本にあやかり「良き友に出会う」「夫婦円満」の御利益がある。

鎌倉で最大規模を誇る祖師堂
開基の比企能本(日学上人)像
持国天と多聞天を安置する二天門は彫刻が見事
「大学守」を授かり、ご利益にあやかりたい
境内にある仙覚律師之碑。比企氏出身の天台僧仙覚が万葉集の研究をした寺でもある

立正安国論が執筆された松葉谷

 比企谷をあとにして徒歩10分の松葉谷へ。日蓮聖人が『立正安国論』を執筆したという御法窟が伝わる谷戸で、その霊跡を守り継ぐ安国論寺がある。山門を入ると木漏れ日に包まれた参道がのび、まるで一幅の絵を見るよう。春は山門前や本堂前のシダレザクラが美しく、日蓮聖人の杖が根付いたと伝わる天然記念物のヤマザクラ「市原虎の尾」も4月下旬頃、八重の白い花を咲かせる。参道途中には休憩所もあるので、抹茶(菓子付き480円)などで一息つくのもよさそうだ。名物の蓮の実甘納豆(480円)は土産に買って帰ることもできる。
 寺の起源は建長5年(1253年)、現在の千葉県清澄山上で立教開宗した日蓮聖人が松葉谷の岩屋に結んだ庵とされている。当時、聖人は32歳。大勢の人が行き交う小町大路で毎日辻説法を行ったとも、武家の屋敷で人を集めて法華経を広めていったともいわれている。のちに日蓮聖人の六老僧となる日昭上人や日朗上人が入門し、有力檀越の四条金吾や、下総の有力信者の富木常忍(ときじょうにん)が帰依したのもこの頃だ。もちろん比企能本もすでに入信している。聖人の教えが広まれば広まるほど、他宗派などからの迫害は増していったと想像される。
 そんな中、深閑とした松葉谷は緑の中に包まれるような安心感がある。書き物に没頭するにはいい環境だったのだろう。御法窟は本堂の向かいに立つ御小庵という建物の奥にあって非公開だが、ご住職によると洞穴の天井は高く、お堂がなければ日中は明るい雰囲気だという。現在内部には『立正安国論』を執筆する、39歳当時の姿を写した像が安置されている。耳を澄ませば聖人の走らせる筆の音が聞こえてくるようだ。日蓮聖人といえば眼力鋭く力強い印象だが、『立正安国論』の筆跡は一文字一文字が丁寧で円みがあり、真摯な姿勢が伝わってくる。
 しかし、暴徒たちが夜襲して、草庵を焼き討ちする。世に言う「松葉谷法難」である。この草庵の場所は、安国論寺をはじめ諸説ある。鎌倉の丘陵地には岩窟が多数あり、聖人はその岩窟やいくつかの草庵を転々としながら布教活動をしていたともいわれている。他宗派から受けていた迫害を避けるためにも、丘陵地に巡らされた迷路のような尾根道や切り通しは、谷戸から谷戸へ、岩窟から岩窟へ、身を隠しながら移動できる格好のルートだったと思われる。
 御小庵の脇から山道を登っていくと、聖人が富士山に向かって毎日読経したという富士見台、人間国宝の香取正彦氏が鋳造した立正安国の梵鐘があり、その先に松葉谷法難の避難所となったとされる南面窟が残る。聖人らはそこからさらに山中を移動し、御猿畠へ向かったという。

谷戸の緑に抱かれた心安らぐ境内
御小庵から霊気漂う御法窟を拝する(通常非公開)
目を輝かせながら『立正安国論』を掲げる本堂の祖師像

日蓮聖人が難を逃れ、日朗上人が眠る山

 御猿畠(おさるばたけ)は松葉谷の裏手に広がる丘陵地の一角をさす地名で、その山頂には古くから山王権現が祀られている。伝説では、その山王権現の使いである白猿が聖人らをここへ導き岩窟にかくまったという。付近の崖には段々畑のような地形が広がっており、お猿や村人達は山王神に抱かれ育った食物を聖人らに供養したと伝わっている。
 そんな霊山には、日蓮聖人の直弟子、日朗上人が眠る法性寺がある。鎌倉駅から横須賀線で一駅の逗子駅で下車して徒歩20分。山門の扁額にあしらわれた木彫りの白猿が目印だ。本堂はそこから200メートルほど坂道を上った中腹にあり、さらにつづら折りの参道を登っていくと山頂付近の削平地に日朗上人の廟所が佇む。息を切らしながら、どうしてこのような山の上にお墓は築かれたのだろう、という思いが浮かぶ。
 10歳の頃、父に連れられて入門し日蓮聖人のもとで学んだ日朗上人は、安国論寺のある松葉谷や御猿畠でよく遊んだのだろう。「幼い頃の思い出が多いお山で眠りたい」と日朗上人自身が望んで遺言したという。元応2年(1320年)、池上本門寺で亡くなると、弟子の朗慶上人によってまず安国論寺へ運ばれて荼毘に付され、そして御猿畠に葬られた。墓が安国論寺の方角を望むように建てられたのも遺言のままだという。
 日朗上人の墓を護るため翌年の元亨元年(1321年)に建立されたのが法性寺だ。日朗上人が池上本門寺と比企谷妙本寺の第二祖であることから「両山奥之院」とも称されている。
 よく見ると、廟所は山王権現が祀られている山頂のすぐ下にあり、祖師堂と松葉谷法難で聖人が身を隠したという岩窟も並ぶ。まるで権現様に護られているような場所だ。山頂からは逗子の街と入り江が一望でき、「御猿畠の大切岸(おおきりぎし)」と呼ばれる壮大な石切場遺構も見渡せる。日朗上人はここからの景色も気に入っていたのかも知れない。
 廟所からさらに奥へ進むと、石材が切り出された跡の段々畑状の地形が現れ、檀家の墓が所狭しと並んでいる。こんな山中まで墓参りに来るのはさぞかし大変だろうと一瞬よぎったが、すぐにここを墓所に選んだ先人たちは日朗上人の側で眠る幸せを得たのだと気がついた。法性寺の檀家は信仰熱心なことで知られている。興国6年(1345年)〜慶長8年(1603年)頃の間、法性寺は勅命により京都へ移転していた。その間、寺領は比企谷妙本寺の預かりとなっていたが、地元の信者が率先して日朗上人の墓守をしたという。
 墓所を抜けるとハイキングコースの入り口があり、名越切通(なごえきりどおし)へと続いている。日蓮聖人や日朗上人も歩いたであろう、その山路を鎌倉までのんびり歩いて帰るのも一興だ。

山王権現の使いの白猿が境内の至る所に
御猿畠の山頂に祀られた山王権現
右から日朗上人霊廟、祖師堂、日蓮聖人避難の岩窟が並ぶ
  • 霊跡本山 寂光山 龍口寺(じゃっこうざん りゅうこうじ)神奈川県藤沢市片瀬3-13-37 TEL.0466・25・7357 9時30分〜16時(境内6時〜) 拝観無料
  • 霊跡本山 長興山 妙本寺(ちょうこうざん みょうほんじ)神奈川県鎌倉市大町1-15-1 TEL.0467・22・0777 9時〜16時(境内日の出〜日没) 拝観無料
  • 妙法華山 安国論寺(みょうほっけさん あんこくろんじ)神奈川県鎌倉市大町4-4-18 TEL.0467・22・4825 9時〜16時30分 月曜休(祝日を除く) 入山100円
  • 猿畠山 法性寺(えんぱくざん ほっしょうじ)神奈川県逗子市久木9-1-33 TEL.046・871・4966 9時〜17時 拝観無料