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のんびり行こう ぶらりお寺たび 〜月刊「旅行読売」編〜
のんびり行こう ぶらりお寺たび 旅で出会った名刹で日蓮聖人の教えに触れる。そっと手を合わせ、癒やしのひとときを。

Vol.20 岐阜 美濃の武将を癒やした法華経

大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台である岐阜の稲葉山城(岐阜城)。その城下で武将や殿様に愛された日蓮宗のお寺を訪ねよう。

「美濃のマムシ」の菩提寺へ

 岐阜駅からバスで15分。長良川沿いに現れる金華山は、若き明智光秀が仕えた斎藤道三(利政)の稲葉山城があった所。のちに織田信長が新たに岐阜城を築いたことでも知られ、城跡と一帯の山が国の史跡になっている。急峻な山の頂には復興天守が鎮座し、朝日に輝く姿はまさに覇者の偉容そのものだ。
 麓の登山口からすぐ、道三、義龍(高政)、龍興と斎藤家三代の菩提寺である常在寺を訪ねた。宝徳2年(1450年)、法華信者だった美濃国守護代の斎藤妙椿(みょうちん)が京都の本山、妙覚寺より日範上人を迎えて創建したと伝わる。道三はこの斎藤氏との血縁関係はないが、名跡を継ぐことで出世の道を切り拓いたと考えられている。しかも、時は戦国時代。鉄砲や火薬の輸入拠点になっていた種子島に法華信者が多かったことから、日蓮宗寺院にはその情報が集まりやすかったとされる。大河ドラマでも常在寺住職と道三が鉄砲の話をする場面が記憶に新しい。
 しかし、道三にとって常在寺は出世や鉄砲というだけの存在ではない。幼い頃から父とともに何度も訪れ、日蓮聖人の教えに触れてきた心の拠り所だった。というのも、道三の父、長井新左衛門尉は京都の妙覚寺で修行した経験を持つ元僧侶。常在寺の第四世日運上人は、修行時代の兄弟弟子だった。そんな父や日運上人が御題目を唱える姿を、道三は間近に見て育った。そして合戦時は、日蓮聖人の直弟子、日朗上人ご真筆の懐中本尊をお守りにしていたという。
 「美濃のマムシ」と悪名高く評されることが多い道三だが、信仰心に篤い一面はあまり知られていない。寺にはそれを裏付ける様々な遺品が展示されている。
 道三は晩年、嫡男義龍との確執が戦へと発展し、長良川の戦いで討死する。その直前に書かれた遺言書には、法華経に護られながら討ち死にする覚悟、一族の救いを子の出家に求める信心深い言葉が並ぶ。実際、子息二人が出家し、常在寺の第五世(のちの妙覚寺貫首)日饒上人と、第六世の日覚上人になっている。
 義龍も自らの意思で父と同じ常在寺を菩提寺に選んだといわれる。たとえ政治的に対立しても、親子の縁はそれ以上に深く複雑なものなのだろう。本堂に並ぶ道三、義龍の肖像画を眺めていると、法華経とともに今ようやく穏やかな時を過ごす父子の姿がそこにあるような気がした。
 ちなみに、門前を横断する「七曲道」や、約150メートル北の「百曲道」は、道三が城下町整備の際に造ったものとされる。城への登山道の整備、長良川を活かした水運や商工業、鵜飼いも含め、道三のまちづくりはその後の時代に受け継がれ、岐阜市発展の礎になっている。
 その功績が見直されて、約50年前から始まったのが4月第1土・日曜の「道三まつり」だ。常在寺では命日の4月20日に行ってきた斎藤道三公追悼法要をまつりの日に合わせて行い、この2日間は本堂を無料開放する。境内の桜が見ごろを迎えるなか、約460年前に思いを馳せてみるのも一興だ。肖像画を奉納した娘の帰蝶(濃姫)や、家臣の明智光秀も、もしかするとこの寺で道三の冥福を祈ったかも知れない。

道三の娘、帰蝶が寄進した道三像(国重要文化財)
義龍の嫡男、龍興が寄進した義龍像(国重要文化財)
道三がお守りにした懐中本尊(日朗上人筆)
常在寺の本堂に祀られる祖師像。妙椿の子、利国が寄進した室町期の御像だ
3月中旬から4月下旬まで様々な桜が楽しめる常在寺の境内

芭蕉や殿様も訪れた憩いの寺

 常在寺から七曲道を挟んだ南側、「さんこうさん」と呼ばれ親しまれる妙照寺も訪ねた。天文3年(1534年)に京都の大本山、妙顕寺の日舜上人が開創。最初は1キロほど西にあったが、慶長5年(1600年)、当時の城主・織田秀信(信長の孫、三法師)から空き屋敷となっていた旧竹中半兵衛屋敷が寄進され、現在地へ移転した。
 竹中半兵衛(重治)は秀吉の天才軍師として知られているが、もとは斎藤家の家臣。義龍から家督を継いだ龍興の時代、主君を諫めるため、たった1日、わずか16人(17人説あり)で稲葉山城を乗っ取り、半年ほど占拠したという武勇伝がある。
 境内奥にある三光稲荷社は、半兵衛が竹中家の守護神として祀ったものとされる。半兵衛屋敷があったことは地元でもほとんど知られていないが、この稲荷社は檀信徒でない人々からも親しまれ、崇敬を集めている。寺が「さんこうさん」と呼ばれ、山号が「三光山」となった由縁でもあるという。
 現在、「妙照寺文書」として岐阜城資料館に常設展示されている秀信の寄進状は、慶長5年6月28日の発布。数か月後には天下分け目の合戦、関ヶ原の戦いが起こり、一時は寺の移転どころではなかったかも知れない。現在の本堂が建立されたのは2年後の寛文二年(1662年)。現存する県内最古の社寺建造物とされる庫裏とともに、市の重要文化財に指定されている。
 その庫裏に、貞享5年(1688年)、ある人物が滞在する。俳聖と称される松尾芭蕉だ。当時の住職は第五世日応上人で、その弟子で俳人の日賢上人と、芭蕉は親交があったという。6月8日に宿に到着した芭蕉は、日賢上人らのもてなしに感じ入って、『やどりせむ あかざの杖に なる日まで』と詠んだ。一年草の「あかざ」は秋に枯れると茎が老人にも扱いやすい軽い杖になったことから、「秋まで」もしくは「老いて杖が必要な年になるまで」、ここに居たくなったよ、という心情を表している。
 境内は、金華山と尾根続きの稲荷山の自然が取り込まれ、夏も涼やかで落ち着いた風情をまとう。芭蕉が約1か月滞在した通称「芭蕉の間」から庭を眺めれば、身も心もリラックスして一句浮かんできそう。
 心安らぐ雰囲気は尾張徳川家の殿様にも愛された。江戸時代、殿様が領地の見回りで岐阜城へ登る際に御休憩処として立ち寄っており、その履歴は数十度に及んでいる。登城前に寺で中食(ちゅうじき)をとりながら、殿様も芭蕉に倣って、一句詠んだかも知れない。
 最近は、芭蕉の聖地としてだけでなく、子育て中のママたちを応援する講座や、手作り品の販売などでにぎわう年に一度の「寺mamaマーケット」などが開催され、宗派を超えた地域の憩いの場となっている。
 岐阜城へ登城の際はこの癒やしの寺に立ち寄り、受け継がれる歴史のなかに、ひととき身を委ねたい。

建立当初の杮葺きに似せて、瓦から銅板に葺き替えられた妙照寺の本堂(写真提供:妙照寺)
芭蕉手植えの梅の前に佇む句碑(写真提供:妙照寺)
庭に面した十二畳の「芭蕉の間」(写真提供:妙照寺)
半兵衛が信仰した三光稲荷社(写真提供:妙照寺)
  • 鷲林山 常在寺(じゅりんざん じょうざいじ)岐阜県岐阜市梶川町9 TEL.058・263・6632 9時〜17時(11月〜3月は10時〜16時) 無休(行事日を除く)150円料
  • 三光山 妙照寺(さんこうさん みょうしょうじ)岐阜県岐阜市梶川町14 TEL.058・264・7793 10時〜16時 無休(行事により拝観不可の日あり)200円