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のんびり行こう ぶらりお寺たび 〜月刊「旅行読売」編〜
のんびり行こう ぶらりお寺たび 旅で出会った名刹で日蓮聖人の教えに触れる。そっと手を合わせ、癒やしのひとときを。

Vol.21 愛知 名古屋 尾張の名将ゆかりの日蓮宗寺院

加藤清正と豊臣秀吉の生誕地から名古屋城下の寺町まで、戦国の逸話が語り継がれる寺を巡り、日蓮聖人の教えと武将の生き様にふれる。

清正の生誕地にある「清正公さん」

 豊臣秀吉に仕えた戦国武将、加藤清正が、熱心な法華信者だったことは広く知られている。戦場では「南無妙法蓮華経」の題目旗を掲げて勇猛に戦い、手柄はすべて法華経の力と信じたという。熊本城主として有名だが、生誕地は尾張の中村。家は鍛冶職で、隣はなんと秀吉の生家だったとか(諸説あり)。清正の母と秀吉の母が従姉妹ということもあり、清正は秀吉の膝下でひとかどの武士になっていく。
 名古屋駅から西へ約2キロ。中村公園に隣接したその地には、地元で「清正公さん」と呼び親しまれる妙行寺がある。「清正公」の提灯を掲げた山門をくぐると、桜の木に囲まれた甲冑姿の清正公像が正面に。本堂前には、蛇の目と桔梗の紋が入った清正公堂が堂々たる構えを見せる。
 妙行寺は、日蓮聖人の孫弟子、日像上人が永仁2年(1294年)、真言宗寺院を改宗して創建したと伝わり、もとは200メートルほど東にあった。それを慶長15年(1610年)に清正が徳川家康の名古屋城普請に加わった際、築城の余材と普請小屋をもらい受けて自らの生家跡へ移転再建したという。
 清正公堂は、その翌年、清正が熊本で急逝した後に建立されたもの。花鳥風月などが描かれた格天井、シャチホコの輝く厨子など堂内の意匠も豪華で、尾張の人々の清正への敬愛の深さが感じられる。
 厨子の中には、清正を信奉する熊本・本妙寺の第三世日遥上人が手ずから彫刻した二体の清正公束帯木像のうちの一体を奉安。清正公御正当大祭が営まれる命日の7月24日にのみ御開帳される。この日は例年、伝統のほうろく加持や、名古屋と熊本のおもてなし武将隊の共演などもあり、多くの人で賑わう。これも人々を楽しませることが好きだった清正の仁徳か、名古屋の夏の風物詩となっている。土産には、手ぬぐいやトートバッグなど妙行寺オリジナルの清正公グッズが評判だ。

清正を慕う参拝者が後を絶たない妙行寺の清正公堂
清正自筆の一遍首題本尊や書状などが伝わる
清正の座右の銘「履道應乾」の入った御朱印

太閤秀吉の霊廟を起源とする寺

 妙行寺のお隣、秀吉の生誕地には、同じく日蓮宗寺院の常泉寺がある。慶長年間(1596年〜1615年)に清正が建立した豊太閤霊廟を起源とする寺で、寺伝によれば、秀吉が生前にこの地へ立ち寄った際、清正に寺の建立を命じていたという。
 目の前には中村公園の豊かな緑が広がり、秀吉を祀る豊國神社、清正が戦勝祈願をした八幡社、秀吉の正室おねの甥にあたる木下長嘯子の邸宅跡碑などもある。これら秀吉・清正の生誕地を中心とした一帯が、パワースポットとして人気なのは言うまでもない。
 常泉寺の境内には、秀吉御手植えの柊や産湯の井戸が伝わり、本堂脇陣には豊太閤の御神像が安置されている。この御神像は、「行基の再来」と称された真言宗の僧で、秀吉と高野山との和睦交渉に尽力した興山上人の作。もとは大坂城にあり、清正が秀頼にお願いしてここへ遷されたという。
 ところが昭和58年(1983年)の本堂の火災で御神像はひどく損傷し、再現は不可能かと思われた。それでも住職らはあきらめず、百万回御題目を唱えてゆく中、篤志家が現れ、本堂の再建が実現した。当時の大阪城天守閣館長との縁によって御神像も3年後に修復。修復直後はまるで別の像のように雰囲気が違っていたそうだが、30年の歳月を経て、不思議なことに顔立ちなども昔の姿に戻ってきたという。その表情は、堂々としたなかにも温かな微笑みを浮かべ、まるで秀吉がそこにいるかのような存在感がある。
 寺には、後陽成天皇から秀吉へ下賜された采配、秀吉が前田利家へ宛てた書状、慶長11年(1606年)に京都の大本山、本圀寺の日桓上人から常泉寺開山の日誦上人へ贈られた創建当時の御曼荼羅などが伝わる。本圀寺貫首の日桓上人といえば、清正急逝の際に熊本城へ駆けつけ、本葬を厳修したその人である。清正の深い信仰はさまざまな人物との絆を生み、それが常泉寺創建の礎になっているのだと実感した。

火災から蘇った興山上人作の豊太閤御神像
境内にある豊太閤産湯の井戸で身を清めて参拝を
隣接する豊國神社とのコラボ御朱印帳は令和記念の限定品

清正公力石が鎮座する熱田の霊場

 清正の座右の銘は「履道應乾(りどうおうけん)」。一歩身を引き、成すべき事をしていれば必ず道は開けるという意味だ。徳川家康の名古屋城築城に豊臣恩顧の大名が動員された際も、清正はその信念のもと、天下普請に参加。築城の名手として天守台の石垣を単独で任されるなど大いに活躍した。なかでも、三河湾の篠島から切り出した石を、港のあった熱田から城まで大勢の人力でにぎやかに曳いた話が有名だ。沿道の店から酒や餅をすべて買い上げて人々に振る舞ったので、見物人も皆喜んで石曳きに加わったという。名古屋城で最大の石垣石材は(天守台のものではないが)表面実面積が10畳もあり、「清正石」と呼ばれている。
 また、清正が熱田の港で陸揚げしたものの、大きすぎて動かなくなった石もある。「中村の清正公さん」に対して「熱田の清正公さん」と呼ばれる榮立寺の「清正公力石」だ。第二次世界大戦の空爆で砕かれ、小さくなったそうだが、今もどっかりと境内に腰をおろしている。触れればパワーがもらえると、わざわざ撫でに訪れる参拝者が後を絶たない。
 榮立寺の創建は清正が亡くなった後の17世紀後半のこと。尾張で活躍した日榮上人が熱田神宮近くにあった禅宗寺院を改宗させ、現在地に移転開創したと伝わる。当時、この場所は清正が二度も陣を張った霊場として神聖視されていた。一度目は慶長5年(1600年)に熱田神宮の鎮皇門を修復した時で、二度目は先にも触れた名古屋城普請の時とされている。清正公力石は、寺ができる前からここに鎮座していたのだ。
 本堂には、戦時中に疎開していた清正公像と清正の巨大な手形が入った木版曼荼羅が安置されている。カッと見開いた鋭い眼光とへの字に結んだ口。厳しい表情の清正公さんは、厄災を払い、勝負に勝ち、家運上昇の御利益があると信仰されている。年に一度の御開帳がある2月第1日曜の清正公祭礼には多くの参拝者が訪れる。勝負運を呼ぶ「清正公勝御守」も人気だ

榮立寺の本堂に祀られる衣冠束帯姿の清正公像
触れるとパワーがもらえるという清正公力石
清正の大きな手形が入った木版題目曼荼羅

尾張藩主の側室が帰依した赤門の寺

 清正の崇高な人格と信仰心は、熱心な法華信者だった母、伊都(いと)から受け継がれたといわれている。そもそも法華経は、女性も成仏すると書かれた数少ないお経であり、実は熱心な女性信者は昔から多い。
 旅の締めくくりに訪れた、名古屋城下の寺町にある法輪寺も多くの女性信者からの寄進を受けている。加賀前田家初代利家の側室で、三代利常の母となった壽福院もその一人だ。
 壽福院は、金沢に経王寺を創建し、能登の妙成寺を菩提寺として中興した人物。その実兄が、法輪寺の開祖、日藝上人だ。二人が生まれ育った越前国の上木家は、法華経の篤信一族。妙成寺十四世貫首を経て経王寺の開山となった日淳上人も、壽福院の異母兄である。
 法輪寺は当初、妙国寺といい、慶長6年(1601年)、京都の大本山、妙顕寺の末寺として尾張の中心地、清洲に創建された。名古屋城が築かれると、街ごと城下町へ引っ越す「清洲越し」の藩命が下り、現在地へ。この時、120もの寺院が移され町の南と東に寺町が作られた。日蓮宗寺院18か寺は東寺町の一角で「法華寺町」を形成し、今も往時の面影を残している。
 寺名が変わったのは、名古屋へ移転後に一度廃寺扱いとなったためで、延宝7年(1679年)の再興時に法輪寺に改名された。その頃、尾張藩主徳川綱誠(つななり)の側室、蓮乗院の帰依を受けている。紅殻の華やかな赤門は、蓮乗院の参詣にふさわしい門をと建造されたもの。蓮乗院も、法輪寺檀家の出身とあって信仰熱心だったと伝わる。
 再興後の法輪寺は、摂津国能勢の妙見信仰を尾張一円に広めて隆盛した。開運妙見大菩薩の霊験はもちろん、自ら時代を切り拓いていくという日蓮聖人の教えが、新しい城下町で奮闘する開拓者たちや女性信者らの共感を得たのだろう。
 武将だけでなく女性や町衆の原動力にもなった尾張の法華信仰。その力強く明るい気風に清々しさを覚えつつ、名古屋を後にした。

蓮乗院の参詣にあたり造営された法輪寺の赤門
本堂内陣の祖師像と諸仏は1687年頃から伝わるもの
身延山三十六世日潮上人より贈られた「妙見宮」の扁額
  • 正悦山 妙行寺(しょうえつざん みょうぎょうじ)愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷22 TEL.052・412・3362 6時〜17時(季節により異なる) 拝観無料
  • 太閤山 常泉寺(たいこうざん じょうせんじ)愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47 TEL.052・412・3467 9時〜17時 拝観無料
  • 清正山 榮立寺(せいしょうざん えいりゅうじ)愛知県名古屋市熱田区神宮2-2-12 TEL.052・671・5753 6時30分〜17時 拝観無料
  • 一乗山 法輪寺(いちじょうざん ほうりんじ)愛知県名古屋市東区東桜2-16-16 通常は非公開