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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

辰野金吾(1854~1920)

逆境をバネに日銀本店・東京駅等を設計建築した日本近代建築の祖。

ザンギリ頭を叩いてみれば 文明開化の音がする

250年に及ぶ鎖国(さこく)の封が解かれ、西欧文化やその価値観がどっと押し寄せた明治維新。
確かに、倒幕の立役者である長州(ちょうしゅう)・薩摩(さつま)の連合軍がその主導権を握ったが、旧幕府の家臣たちの中には、日本が西欧に列するため、才能をかわれた有能な人材も数多く存した。

明治政府は欧米の列強と比肩(ひけん)できる建て物を開国のあかしとして構築しなければならなかった。
この役目に生涯を賭(と)し、日本銀行本店・東京駅等、日本を代表する建造物を設計した法華経信仰(ほけきょうしんこう)の人がいる。
日本の建築学の先駆者といわれる辰野金吾(たつのきんご)博士である。

嘉永(かえい)7年(1854)8月22日、金吾博士は唐津藩(からつはん)の下級武士・姫松(ひめまつ)家の次男として生を享(う)け、幼くして叔父である辰野家へと養子縁組される。
唐津藩は12の等級からなり、姫松家も辰野家も下から2つ目の等級で、生活は決して豊かではなかった。

維新後、藩校(はんこう)は廃止となり、替わって西洋文化を取り入れた洋学校が明治3年(1870)、唐津に開かれ、真っ先に金吾博士は応募した。

この洋学校で西洋の薫りに触れ、教師の勧めもあって状況を決意し、間もなく開設される工学寮(後の工科大学校・現在の東京大学工学部)の受験を試みる。
とにかく、狭き門であった。定員30名のところへ2000人を超す志願者があった。
政府が寮の食費・生活費、海外留学ができることになっていた。
政府は近い将来の日本を動かすエンジニアの育成に投資したのだった。

入試の結果は30位、斎戒で入寮を果たす。
2年の教養課程の後、造家学科(現在の建築学科)へと進む。
学科生は4名、英国から教師が招請されていたため、講義はすべて英語で行われた。
ガリ勉の金吾博士であったが、成績は常に3位。
しかし、最終年度末で本人自身も予期せぬ大逆転のトップで卒業、英国ロンドン大学への留学を勝ちとる。

金吾博士は郷里・唐津へ錦を飾り、留学への出発のため、上京する2日前に旧唐津藩の鳥羽(とば)家の秀子と祝言(しゅうげん)をあげる。

明治13年(1880)2月8日、英国に向けて横浜港からヴォルガ号が出校、1ヵ月半後フランスに到着。
そこから鉄道に乗り、ドーバー海峡を渡り「陽(ひ)の沈まぬ国」の首都・ロンドンに着く。
ロンドン大学は、ケンブリッジ・オックスフォードに次ぐ英国の名門で、そこで建築学の権威・ウィリアム・バージェス教授について近代建築学のノウハウをたたきこまれる。

2ヵ年に及ぶ留学を終え、フランス・イタリアで1ヵ年の研修をし、明治16年(1883)5月26日、3年三ヵ月ぶりに日本の土を踏む。
出迎えの新橋には、新妻の姿があった。新居を赤坂台町に構え、新生活がスタートする。

帰国後、一時は工部省営繕課勤務となるが、翌年張るには工科大学校造家学科教授として迎えられ、いよいよ日本人による建築学の礎が築かれることとなる。
この年、長男・隆(ゆたか)《東京帝国大学に仏文科をつくり、門下に小林秀雄(こばやしひでお))・三好達治(みよしたつじ)・森有正(もりありまさ)等を輩出、次男・保(たもつ)は日本体育協会理事、昭和15年(1940)東京オリンピック招致委員長となる》が誕生する。

教授就任後、日本建築学のリーダーとしてさまざまな設計を手掛ける。
殊に明治23年(1890)、日本人建築設計家による初めての国家的建造物・日本銀行本店(東京都中央区)に着手する。
設計のため、金吾博士は欧米にわたり、ベルギー国立銀行をモデルとし、外部から敵の侵入を許さない威厳ある要塞(ようさい)風の本店が明治29年(1896)3月に竣工(しゅんこう)する。

金吾博士には3つの夢があった。
1つ目はかなった。日本銀行本店である。
あとの2つは東京駅と国会議事堂の設計に携わることであった。
実現のため、自らを鍛えるため、明治35年(1902)、東京帝国大学教授を辞し、敢えて市井(しせい)の建築家となった。

この結果、後藤新平(ごとうしんぺい)・渋沢栄一(しぶさわえいいち)・高橋是清(たかはしこれきよ)等の有力者の後押しもあり、金吾博士が東京駅設計の総責任者となり、敷地面積65,300坪、延べ建坪7,241坪の国家的大プロジェクトが明治41年(1908)2月に始まる。

ところが起工後、内容についての議論が沸とうし、建設は遅々として進まなくなる。
悶々とする日々のなか、金吾博士は麹町番町の小笠原(おがさわら)邸を訪ねる。
邸の主は、旧藩主・長行(ながみち)公(幕府老中(ろうじゅう)を務めた)の嫡子(ちゃくし)・長生(ながなり)。
長生は金吾博士より年下で海軍に入っていた。

小笠原家は旧唐津藩の人々の精神的支えとなり、明治11年(1878)、邸内に育英塾・久敬社(きゅうけいしゃ)を設け、19年(1896)には寄宿舎を併設して旧藩内のエリートを育てた。
長生はその社長を務めていた。

長生は海軍に入って東郷平八郎元帥(とうごうへいはちろうげんすい)の膝下(しっか)に侍した。
東郷元帥は日本海海戦で指揮をとり、ロシアのバルチック艦隊を破った人である。
海戦前、博多湾上から博多の東公園にある日蓮聖人(にちれんしょうにん)銅像に必勝を祈願するほどの法華経篤信(ほけきょうとくしん)の人でもある。
後に、東京都府中市に開創(かいそう)された東郷寺(とうごうじ)の開基檀越(かいきだんのつ)ともなっている。

尊敬して余りある東郷元帥の一挙手一投足を間近に見、その信仰心の篤さを感じとった長生も法華経信仰に入り、それは次第に強固なものとなっていった。
明治42年(1910)に設立された日蓮主義天晴会(てんせいかい)(主宰(しゅさい)・本多日生上人(ほんだにっしょうしょうにん))の重要メンバーとして名を列ねている。

  殿、おひさしぶりでございます。
  ようやく東京駅の組立て工事を終えたのですが、レンガ造りが悪いだの、
  強度がどうかなど批判が多く参ってしまいました。

  博士、そんなことでくよくよするんじゃありませんよ。何事をするにも反対はつきもの。
  私が尊服する日蓮聖人は迫害を肥やしとして逞(たくま)しく人生を送られました。
  聖人のように苦難を悦(よろこ)びとして楽しまれよ!

といって法華経と日蓮聖人の伝記を手渡した。
金吾博士は暇をみてはそれらを熟読し、次第に日蓮聖人に傾倒していくこととなる。

大正3年(1915)12月、工事は完了し、同月18日に記念式典が催され、大隈重信(おおくましげのぶ)首相が祝辞を読み開幕式が行われた。
この年の5月12日、東京帝国大学法学部教授・山田三良博士らが4月に設立した法華会(ほっけかい)の発起人として加わり、重要メンバーとして活躍する。

国会議事堂は後進に託すこととなるが、金吾博士の生涯は、旧幕といういわば明治期の外様(とざま)下級武士という逆境をバネとして建築界に打って出て大輪の華を開かせたといえるに違いない大正8年(1920)3月25日、金吾博士は66歳で霊山(りょうぜん)往詣し、遺骨は柴田一能(しばたいちのう)師が立正大学(りっしょうだいがく)講堂の設計を依頼した縁(えにし)から新宿常円寺(じょうえんじ)の墓所へ納められた。