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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

相賀家の人々(1898~ )

「小学生に良き雑誌を」一途信念で小学館を創業・発展させた一族。

日蓮聖人から京都開教を付嘱された日像上人(1269―1342)。その遺志を継いだ大覚大僧正(1297―1364)は、中国地方を布教し、備前法華(びぜんほっけ)という安芸門徒と並び称せられる法華信仰の拠点を築いた。この地より、臨調の会長を務めた土光敏夫(どこうとしお)氏・心理学者の小田晋(おだすすむ)博士等、粛々と法華信仰を育んだ人を輩出している。

明治30年(1898)4月2日、岡山県都窪郡加茂村で備前法華信仰を代々育む庄屋に、ひとりの男子が生まれた。後に、出版業界に新風を送った小学館創設者・相賀(おおが)祥宏氏である。祖父は村会議員を務める村の名士で、村の改良のために私財を投じた人であった。私財を使い果たし、父・虎右衛門は若い時から病を患ったため、祥宏氏は貧困を余儀なくされた。

貧しかったが、挫けるような祥宏少年ではなかった。父をいたわり、母を助けながら勉学に勤しんだ。田植えの時も、水車を踏む時も、小学校へ通う路上にあっても黙々と本を読んだ。正に加茂村版二宮尊徳である。

ある村人の勧めもあり、小学校卒業後の進路は農学校の書記見習を選んだ。本を読めるからである。その2年後、岡山市の吉田書店に就職、この店で、参考書が子どもたちに与える影響の大きさを体感したのであった。書店に勤めて2年後、大きな転機が待っていた。書店の出張所が東京に設けられ、その主任として祥宏氏が大抜擢されたのである。17歳の時であった。

上京して数多くの出版界の人と出会い、経営や編集の才覚を磨き、結婚を契機に新しい夢に向かって進む。23歳の時、佐々木ナヲを娶る。夫婦は次のような結論に達した。

「子どもを育てるには学校を建てることも必要だが、私は良い雑誌をつくって、国家百年の大計に立った子どもを育てよう」

大正11年8月、吉田書店の店主・吉田岩次郎の承諾を得て、小学生向けの雑誌を発刊する会社を設立した。社名は小学生に相応しく「小学館」と命名させた。

9月7日、『小学五年生』『小学六年生』の10月号が2万部創刊された。しかし、売れ行きは捗々しくなく、神田区錦町の狭い事務所は返品の山となってしまった。それでも祥宏氏は、怯むどころか「良いものは必ず売れる」の信念をますます強くし、刊行を続けた。そして遂に売れたのだ。大正12年4月号より収支が黒字に転じたのである。夫婦2人の安堵はいかばかりであったろうか。

しかし、それも束の間。大震災が関東地方を襲ったのであった。多くの会社は営業停止へと追い込まれ、もちろん、出版界も例外ではなかった。紙がない、人がいない。祥宏氏は、休刊してはならないと焦土を東奔西走し、小学館は震災の月にも休まず刊行を続けた。

ところが、事業一本にうち込んだ疲労が重なったのであろうか。1男3女をもうけた後、昭和4年の初夏、祥宏氏は病に伏せてしまう。妻ナヲは本復を祈り、日蓮宗の寺に詣でる。小伝馬町にある身延別院であった。日参する姿を見た志村住職はある日、次のようなことを言った。

「奥さん、会社の経営とご主人の看病をするなかでのお参りは大変だ。若い者をお宅へやりましょう」 「そうですか。それは有り難いことです」

身延別院から若い僧が相賀邸に月回向(えこう)・祈願に下山した。その任を仰せつかったのは、立正大学へ通う若き日の加賀美日聰(かがみにっそう)師であった。牛込二十騎町の相賀邸に毎月お経に行くうち、病床にある祥宏氏に、日聰師が1歳の時に亡くした師父の姿をだぶらせ慕うようになっていった。妻やその子たちにも日聰師は人気絶大であった。

日聰師が大学を卒業した後も、相賀家との交誼が続いた。甲府の遠光寺(おんこうじ)に帰ったまではよかったが、当時、寺の維持・兄弟弟子の食の確保はままならなかった。その状況を知った祥宏氏は、しばしば相談に応じ、喜捨(きしゃ)した。その後も相賀家は、お盆や正月の回向を遠光寺に依頼し、日聰師は、社運と家運隆昌を祈ったのであった。

小学館創業10周年が催された昭和7年8月8日、『こころの力』を社員に配布した。それは祥宏氏の愛読書であり、法華会創設者のひとり、小林一郎先生が東急五島家から依頼されて編集・著作したものであった。文章は八章からなり、その背後にあるのは法華経の教えである。祥宏氏自身、『こころの力』に啓発され弱者救済に心を寄せ、実行したのである。日聰師にも会うたびに、
「坊さんは、社会に眼を向けなければいかん。寺は、社会事業や幼児教育に取り組まなければならぬ」
といったという。日聰師が後に、保育施設・立正光生園を設立したのもその影響である。

昭和13年8月12日、幼いころから苦学を経験し、病と闘いながら出版界に一石を投じた小学館創立者・相賀祥宏氏は、享年42、志半ばで、自らお題目を唱え合掌しながら、家族に見守られ霊山往詣(りょうぜんおうけい)した。

祥宏氏の志を継いだのは、長子・徹夫氏であった。父を13歳で亡くし、小学館の屋台骨を背負っていかなければならなかった。それを支えたのは母ナヲさんであった。第2次世界大戦末期、昭和20年3月10日の東京大空襲で家は全焼、徹夫氏は軍隊に応召という状況のときもあった。

徹夫氏は、昭和20年6月26日に株式会社小学館の社長に就任。翌年、東京大学文学部宗教学科に入学する。そこで、和辻哲郎(わつじてつろう)博士の薫陶を受けたという。その影響からか、徹夫氏は、仏教哲学的な見方をする。環境問題についてこう語る。 「人間の存在そのものが悪ではないか。その原点に立って環境問題を考えなければならない」 と。法華経の「小欲知足(しょうよくちそく)」の教えに通じる。

平成元年6月、山梨県昭和町にあった内藤宇兵衛(ないとううへい)(元貴族院議員)邸跡に、日聰師の発願、祥宏氏を開基檀越(かいきだんのつ)とし、徹夫氏の喜捨により、法華信仰の道場・浄心寺(じょうしんじ)が開かれた。菩提寺は岡山市加茂にある蓮休寺(れんきゅうじ)(谷口孝雄(こうゆう)住職)であるが、浄心寺は日聰師と相賀家の永年の交誼の証ともいえよう。

平成4年5月。徹夫氏は第2代社長を退き、相談役となった。その後も、時折催される社内懇親会や親睦旅行などに気さくに参加されることも多い。ことに、古くから労苦をともにした社員や、会社を陰で支える人たちと一緒に行動するのが楽しいという。そんな折、列車に乗る場合はみんなと一緒で、徹夫氏が"グリーン車で別に"ということはありえない。

自分と接する人々すべてに分け隔てなく、だれとでも平等に親しく接し、困難にも真っ正面から取り組み、決して華美を好まない相賀家の人々は、法華経精神の実践者といえよう。