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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

鈴木修学(1902~1962)

法華精神の福祉事業を実現すべく人材育成に力を注いだ実践の生涯。

近代日蓮宗にあって、社会福祉事業に生涯を賭けた僧侶として身延深敬園(じんきょうえん)病院の綱脇龍妙(つなわきりゅうみょう)師や身延山功徳会の長谷川寛慶(かんけい)師をあげることができるが、社会福祉だけでなく、寺を中心として新しい布教体制を確立し、大学教育にも取り組んだ人物が存在する。東洋大学社会学部・西山茂教授は、その人物を「宗教弾圧の経験を踏まえ、在家主義から日蓮宗に帰属しながらも在家者としての意識を継承した人」として高く評価している。

その人とは、明治35年(1902)1月5日、広大な濃尾平野の南東に位置する愛知県江南市寄木に、農業と菓子問屋を営む鈴木徳太郎と妻さわののもうけた3男2女の長男として生を享けた鈴木修学(しゅうがく)師のことである。鈴木家は代々近在にある禅寺(ぜんでら)を菩提寺としていたが、父徳太郎は家業のかたわら法華経や日蓮聖人の教えを学ぶ篤学の法華経信者として知られていた。修学師が幼いころは、子守唄がわりにお経や御遺文の一節を聴かされたという。

尋常(じんじょう)小学校では、常に首席を通したが、上級の学校へは進まなかった。長男が家業を継ぐ時代であった。小学校を卒業すると父を手伝い、菓子の注文をとりに歩いた。遠く飛騨高山や伊勢に赴くこともしばしば。誠心誠意の姿が顧客に通じたのであろうか。注文は次第に増え、お金もたまった。これを資金として、パンの製造と卸を始めた。これが大いに当たった。

修学師が本格的に法華経と邂逅するのは23歳の時。「お金で買うことのできない幸せとは、永遠に崩れない幸せとは何か」を求める心が芽ばえ、悶々とする日々のなか、ある女性布教師と出会う。法華経を宣布しながら弱者救済に当たる仏教感化救済会を主宰する杉山辰子法尼であった。

法尼は修学師の容姿を見るなり、突然、
「あなたはパンを焼くよりほかにしなければならないことがあります。他人(ひと)を救う大切な仕事です」
と一喝、切々と説いたのであった。最初は呆気にとられたが、次第に法尼の言葉の重みを領解し、パン製造をしながらの手助けを決意する。法尼の布教を手伝い不思議な体験を重ね、信仰の尊さを実感するようになる。次第に信仰が深まり、繁盛していった商いだが畳んで一切を売り、そのお金を持って救済会に入る。この時両親は猛反対したが、釈尊出家の故事になぞらえて説得したのであった。

昭和3年6月、法尼の養女みつを娶る。みつは東京の病院で看護婦として働き、救済会がハンセン病施設を慰問する際には必ず同行して患者を治療した。

結婚して間もなく、法尼は2人を福岡市生(いき)の松原にあるハンセン病施設へ責任者として赴任させた。経営難に陥った施設の再建を図るためであった。2人を大きな労苦が待っていた。建物は荒れ放題、天井からは雨水、壁からすき間風、廊下は沈むという状況。当時はハンセン病に対して世間の風も冷たかった。治療法が確立せず、偏見と無知と差別のなかでの運営は言語を絶するものであった。しかし、この環境が2人の絆を強くさせ、精神的にも逞しくした。

ある日、妻を連れ出して玄海灘に面した海岸を散策した。すると、みつがポツリといった。
「ごめんなさい。繁盛していたパン屋をやめてまでこんな苦労をさせて……」
「いや、自分の修行さ。日蓮聖人に比べれば万が一にも及ばん」
と妻を慰め、自身にもいいきかせたのであった。

福岡市中を訪ね、1,000人を超える後援会員を得たが、運営状況は厳しく家財道具まで売って支えなければならなかった。遂に、赴任から2年後、深敬園病院の分院として引き継がれることとなる。任を終えた修学師は冬空の下、世話になった人の家をまわった。
「あがってお茶でもいかがですか」
と多くの人がねぎらい、家に入ることをすすめたが、 「ありがとうございます。急ぎますから」
とにこやかに断って立ち去った。本当はゆっくりとお礼をいいたかったのだが、コートの下は洗いざらしの浴衣一枚。非礼になると思ったのだ。施設運営のため着物のほとんどを質屋に入れてしまっていた。

名古屋へ戻った師に新たな仕事が待っていた。知多半島にある青少年の更生保護施設での指導を任されたのである。修学師は農業に従事しながら入所者たちとの心の交流を図った。毎日、人肥を天秤棒にかつぎ、野菜をともに育てた。

昭和7年6月28日、救済会の創設者杉山法尼が逝去する。第2代会長に医師村上斎氏が就任し、修学師は幹事長・常務理事等を歴任、全国にある組織への布教に東奔西走の日々を送ることとなる。

ところが、昭和18年4月15日、救済会は官権から反戦を唱える宗教団体として、治安維持法違反の容疑で家宅捜査を受ける。高齢であった村上会長に替わり、取り調べのため58日間に及ぶ拘留を受け、拘留が解かれた日に布教活動の停止を申し渡された。ただただ、信仰を静かに守る術(すべ)しかなかったのである。

第2次世界大戦が終わった1年後、昭和21年の秋、得度する。師匠は京都本山妙伝寺(みょうでんじ)貫首森泰淳(たいじゅん)上人。上人は法尼の甥、妻は修学師の妹であった。日蓮宗の僧籍を修得した修学師は、救済会を発展解消して昭徳教会を設立し、会員も日蓮宗に帰属した。

得度して4年後、大荒行に入る。49歳の初行は身体にこたえたに違いない。以降、再行・参行の加行(けぎょう)をし、第参行を終えた4月、日蓮宗財務部長に就任、戦後の教団再建にあたった。

一方、昭和25年7月、昭徳教会を法音寺(ほうおんじ)と寺号公称し、信徒は帰正式を催して檀家となり、その支院が全国に続々と建てられていった。

修学師には大きな夢があった。法華精神を活かした社会福祉実現のための人材育成、すなわち大学を設立することであった。昭和28年2月に学校法人法音寺学園を設け、4月には中部社会事業短期大学を開き、32年4月には4年制大学日本福祉大学が誕生し、今日に至っている。

釈尊の「我が如く等しくして異なること無し」の誓い、法華経の菩薩道を「慈悲・至誠・堪忍」とした杉山法尼の教えを具現化し、社会福祉に、教育に大輪を咲かせた修学師。全国に28の支院と10の布教所を擁する法音寺。日本福祉大学、付属高校、福祉専門学校を有する法音寺学園。児童養護施設・知的障害者施設・医療施設等15ヵ所を統括する社会福祉法人昭徳会では、修学師の精神を受け継ぎ、生きた布教活動を今もなお展開している。鈴木修学師の実践の生涯は、21世紀の僧侶の在り方を問うているともいえよう。平成13年は、没後40年、生誕100年の年に当たる。