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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

春日屋伸昌(1920~1990)

中央大学名誉教授。人生の指針たる仏法と科学で新しい世の中を照らした屈指の科学者。

科学の発展は、人類に生活の向上や幸福をもたらしている。しかし、一方で核兵器開発や環境汚染を生み、方向を間違えば人類破滅へのシナリオを容易に描く具ともなってしまう。それを最も危惧したのが、二十世紀最高の科学者アルバート・アインシュタイン博士である。彼は宗教と科学のかかわりについて次のように言う。

宗教なくして科学は不具であり、科学なくして宗教は盲目である。

宗教を伴わない科学の発展はあり得ない、また、科学を否定する宗教はその用を果たさないと言ったのである。

筆者は数年前、ロボット博士と称せられる早大理工学部・示村悦二郎教授と話を交わす機会を得た。示村教授は日本における科学技術の発展には精神面での充実、科学と仏法(ぶっぽう)との対話が最も必要であると訴えられた。

ところが、明治以降の近代教育の洗礼を受けた、いわゆる知識人といわれる人の多くは、宗教、ことに仏教はまやかしの呪術的宗教と断じ、無宗教こそがステータスと信じている。このような人々に科学的立場から明解に仏法を説き、仏教の重要性を説いた科学者が存在する。中央大学名誉教授・春日屋伸昌(かすがや・しんしょう)博士である。博士は流量学・数学の権威であり、オペラレコードの世界的収集家としても世に知られた人物である。

大正9年1月5日、後に東京電機大学で教鞭をとった春日屋関男(せきお)と孝(たか)の一人息子として東京青山に生を享ける。NHKの技術者でもあった父の転勤で大阪へ移ることもあったが、小学5年から東京に戻り、中学・高校は私立の名門武蔵(元首相で現蔵相の宮沢喜一氏とは同級生)へ進み、さらに東京大学工学部へと入学する。

昭和13年、法華経との出会いが生まれる。疾風怒濤の思春期17歳のある日、“倖せとは何か”への解答を求め、神田の古本屋街を歩きに歩いた。人生の指針の本を求めて。宮沢賢治ではないが、彼が島地大等訳の法華経に出会ったごとく、ちょうど一年前、平凡社から刊行されベストセラーとなっていた小林一郎著『法華経大講座』全12巻(小林先生については 当コーナー第2回)が目に止まり、知らずのうちに手にして読んでいたという。高校生にとって手の届かぬ高価な本であったが、父に再三懇請して手に入れる。そして、法華経を読む日々が始まる。初回はさっぱりわからなかったが、2回、3回、……と読めば読むほど味わいがでてきたという。

「なんと奥深く素晴らしい経典だ。このお経に “一眼の亀” とあるように、法華経に出会えた確率は数百億分の一に違いない」

博士は次第に著者である小林先生の肉声による解説をぜひ聴いてみたい、という欲望にかられるようになる。

小林先生による法華経講話会は、法華会(ほっけかい)によって月一回神田学士会館で催されていた。法華会は大正3年、小林先生や東京大学法学部長・山田三良先生等によって設立された法華信仰を養う在家主導のグループであった。会員には、東京駅を設計した辰野金吾博士、広辞苑編纂の新村出博士等錚々たるメンバーが名を列ねていた。講話会の情報を得た博士は、早速、学士会館を尋ね、最前列に坐して聴講したのであった。いつものように小林先生の講話が一時間半ほどで終わり、壇を下ろうとした時、博士は心臓の高なりをおさえて先生に歩み寄った。

「先生、ありがとうございました。春日屋と申します。先生の本を幾度も読んでおります」

「そうですか。ありがとう。君、若いようだがいくつかね」

「はい、満十七になります。目下、理工系の大学を目指して勉強中であります」

「私の講義がわかりましたか」

「はい、先生の本を読めば読むほど魅せられて、こちらへ参りました。これからもよろしくお願い致します」

「そうですか。続けることが何よりも大切なことですよ。学業の方もしっかりとやりなさい」

この日を機に博士は月例講話会に足を運び、常に最前列に坐して講話を聴くこととなる。時には、小林先生の講演の旅にも、今風に言うならば“追っかけ”、カバン持ちとして近侍したのであった。宣伝を好まず、無私無欲、一切の虚飾を廃し、高い理想を有し、寛容の心を持ちあわせた小林菩薩にますます心酔していったのである。

ところが、小林先生と邂逅(かいこう)してわずか6年後の昭和19年3月、先生は69歳で逝去する。生涯の恩師とした先生の死に、一時は自失茫然となるが、釈尊(しゃくそん)の遺言「諸行無常」と「法灯明」を自身に言い聞かせ、前にも増して小林先生の著書を幾度も幾度も読んだという。

博士の法華経に対する真摯でひた向きな姿勢に惚れ込んだ人がいた。法華会の理事であり、造り酒屋・豊島屋社長であった吉村孝一郎氏であった。吉村氏は長女延子(『みのぶ』にペンネーム石上みねとして連載)を嫁がせてしまったのである。これ以降、博士夫妻の互いに随伴の法華信仰を基とした生活が始まる。昭和24年1月のことであった。

博士は東京大学卒業後、昭和18年に早大理工学部の講師として教壇に立つが、戦況の悪化により疎開し退職を余儀なくされ、戦後も定職に就かずの状態であった。いわば失職中ともいうべき状況での婚儀であった。しかし、法華信仰受持の夫妻に変化(へんげ)の人が現れ、中央大学に新設された工学部の助教授として迎えられることとなる。博士の研究分野は土木工学である。ことに「区分法による春日屋の平均流速算定式」の論文は、現在でも日本土木学会で高い評価を受けている。博士は土木学会の理事、分科会の委員長を幾度も務め学会の発展に貢献されている。また、博士の専門関係著書は97を数える。

一方、法華会においても次第に重責を任され、昭和46年から第3代理事長。60年からは久保田正文(しょうぶん)先生に代わって月例講話の講師を引き継ぐことになる。中央大学で教鞭をとりながらの専門分野の研究。法華会で理事長を務め月例会の講師をする。そして、月刊誌『法華』をはじめ仏教書の執筆。この他、地方自治体・病院・進学塾・青年会議所・宗門(しゅうもん)寺院等での講話。博士は日々忙しいことこそが法華経に捧げる人生そのものと喜びを体感していたという。

ことに仏教に関する原稿の執筆と校正は、睡眠時間を削り、好きなオペラレコードを聴きながら真夜中に行われたという。『法華』が通巻882号(平成11年正月号)を数え、宗教月刊誌として最長記録を更新している。もし、博士の身命を惜しまぬ支えがなかったならば、途絶えていたかもしれない。

東方学院院長・中村元(はじめ)先生は博士について次のように語っている。

仏法が、新しい世の中を照らすための師父(しふ)でいらっしゃいました。われらの祖先以来の尊い精神を受けながら、仏のみ教えを新しく溌剌たるものとして生かしてくださいました。

中央大退官後は小林先生のごとく法華経講話の旅へ、との志半ば、平成二年二月二十日に逝ってしまった春日屋博士。さぞや今ごろ、霊山浄土で科学と仏法との調和について熱く説いていらっしゃることだろう。