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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

塚本三郎(1930~ )

政治家。真の法華信仰にもとづき創価学会・新進党に「ノー」を送った。

政治家といえば、舌先三寸で世渡りというイメージがつきまとう。選挙中には誰にでも頭をペコペコと下げ公約は必ず守ると宣すが、当選すれば我がもの顔、平気で公約を破ってしまう輩が多い。当選するためにはどんな組織とも手を結ぶという政治家が多いなかにあって、法華経信仰を貫く信念の政治家がいる。

元民社党委員長塚本三郎その人である。現在、民社党は解党し、平成6(1994)年12月10日に結党された新進党の枠組みのなかに入っている。新進党は自民党を離脱したグループ・民社党・日本新党、そして公明党から構成された。この新進党が結成されようとしたとき、民社党が加わることに明確な「否」という答えを送ったのが塚本氏であった。

平成6年の秋、塚本氏は米沢委員長を国会に尋ねた。部屋をノックすると、すぐさま入るよう促された。

「いや久しぶりです。先生の弁舌が国会で聴けないのは残念です」

「落ちたことは済んだことです。それよりあなたにお伺いしたいのは、民社党が新進党に与するか否かなのです」

「それはどういうことですか」

「米沢さん、私はあなたにぜひとも聞き入れて欲しいのです。公明党と共に新党をつくることは、後々に悔いをのこすことになるのです。一には池田大作の意向が強く反映する。二には地方組織がついてこない。何とかお考え直しいただきたい」

「うむ……」

「政治家はときには打算よりも信念を貫いていただきたいのです」と言い残して米沢委員長のもとを去った。同じことを小沢一郎にも諫言したが、一蹴されてしまう。

その後、新進党は民社党をとりこんで誕生する。塚本氏の両氏への諫めは彼の法華信仰、反創価学会の精神から発せられたものに他ならない。ただただ、そのとき、国会議員でなかったことへの自責の念で一杯であったという。もし、この時点で議員を続けていたならば民社党の加入はなかった……と。塚本氏は新進党結成と共に民社党を離れた。30年余、苦楽を共にした同志と別れる心中はいかばかりであったろうか。

昭和2年(1927)4月20日、塚本氏は名古屋市南部在住製材業を営む後藤豊三郎・いさの三男坊として生を享ける。昭和19年の暮れ、国鉄に入社するが勉学意欲の盛んな塚本青年。働きながら大学へと進学する。この頃の若者の多くは日本の将来に不安を抱いていた。

大戦へと突入し、勝っても負けても日本は一体どうなってしまうのか。若者は国の未来を憂いていた。塚本氏は国鉄に働く青年仲間を集めて勉強会を始めた。始めて間もなく、日蓮宗の布教師が招かれた。

この布教師とは愛知県知多半島で布教活動を展開していた塚本たし法尼であった。このたし法尼が後の塚本氏の人生に大きく影響を与えることとなる。ちなみに法尼に傾倒した人には蟹江一肇師(名古屋法華道心教会担任)や坂角総本舗初代社長の坂鐐三氏などがいる。

勉強会でたし法尼は次のように語ったそうである。「仮に、戦争で敗けたとしても日本の将来にとってはその方が良いかもしれない。それが仏のはからいだ。仏教では因果応報を説くが、必ずそれがやってくる」と。

塚本氏はこの言葉に深く感動した。国家総動員体制のなか戦争勝利へ一丸となっている状況にあって、「敗」という文字はタブーであった。それを敢えて発し、仏教の教理を説いたたし法尼に深く共鳴したのであった。

昭和20年8月15日、日本は戦争に敗れる。塚本氏はたし法尼の膝下にあって次第に法華信仰を深化させながら荒廃した日本を再生する方策を熟慮する日々を送るようになる。敗戦の一年後、法華信仰に入った証として後藤姓から法尼と養子縁組をし、塚本姓を名乗ることとなる。法尼は自身の後継者として塚本氏に期待を寄せていたのであった。しかし、塚本氏は政治に興味を抱くようになる。宗教家か政治家か、思い悩むなか、ある日、法尼は塚本氏に尋ねた。

「三郎さん、あなたは何になりたいのかね」

「どうしたら良いのかわかりませんが、政治家となって日本の将来を考えてみたいのです」

「そうなの。どこへ行こうと法華信仰を忘れちゃいけませんよ」

法尼の後押しもあり、国鉄青年部の意志を集約して塚本氏は衆議院選に打って出る。昭和26年(1951)、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本の独立が認められて間もなくのことであった。しかし、結果は落選。その後、2回選挙に立つがいずれも落選。落選のたびに法尼は励まし続けた。

挑戦4回目の昭和33年(1958)、塚本氏31歳のとき、念願の衆議院当選が叶う。同期当選者には竹下登、安倍晋太郎などがいる。以降10期にわたって衆議院議員を務め、無所属から社会党、そして西尾末広に師事して民社党を旗揚げすることとなる。さらに、春日一幸と共に愛知民社の基盤をつくり、党書記長、委員長の重要ポストを歴任する。

ところが、前回の衆議員選で落選の辛酸をなめる。その原因は前々回行われた参議院選にあった。民社党から愛知地方区に出馬したのは、人気ラジオタレントSであった。彼は当選するが、後に履歴に偽りがあることが発覚し議員辞職に追い込まれる。当然のことながら選挙対策本部長をしていた塚本氏へも世間の厳しい批判が押し寄せてきたのであった。その結果が衆議員選での落選となる。塚本氏はこの出来事を良き試練、善知識と受けとめる。決してSを恨みはしない。今までが順調すぎて仏さまから試練をいただいたのだと。

国にとって私は本物の政治家ではなかったと自身を省みる。

「今日までの3ヵ年は、恐れ多いが、日蓮聖人が第3回目の国家諫暁をされた後、身延へ9ヵ年間入られた心境に通じる。もう一度、誰に対しても尊敬の念を抱かれた不軽菩薩の精神をもって日本の進路を考えなければ」

と塚本氏は今熱っぽく訴える。

塚本氏の菩提寺・法華道心教会では法話例会が催され、しばしば塚本氏は熱弁をふるう。彼の口からは法華経、御遺文の一節がポンポンと矢継早に出てくる。若き頃よりたし法尼から信仰の教示を受け、御遺文に親しみ、小林一郎先生の著述を読み漁った結果だという。

塚本三郎氏は真の法華信仰に基づき、勇気をもって創価学会・新進党に「否」のサインを送った政治家である。