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法華経に支えられた人々

法華経に支えられた人々

中村八大(1931~1992)

作曲家。三百を超える曲を作り日本人の心にエールを送った心優しき作曲家。

平成4年6月10日、昭和を代表する偉大な作曲家が他界し、告別式が13日に東京芝公園の増上寺会館で催された。弔辞はなく、会場には読経の声と彼の曲が粛々とピアノ演奏によって流された。

「黒い花びら」で作曲家としてデビュー、「上を向いて歩こう」「夢で逢いましょう」「こんにちは赤ちゃん」等、300を超える名曲を作り、日本の高度成長を支えた企業戦士、子育ての母親たちにエールを送った天才ピアニスト中村八大さんの葬儀がしめやかに行われた。福岡県久留米市にある実家の宗旨・浄土真宗の次第で奉行されたが、77日忌法要は日蓮宗の次第で行われ、法号もその時に授与された。

八大さんは昭和6年1月20日、国民学校の校長であった父・中村和之と母・こはるのもうけた3男2女の3男として中国大陸の青島に生を享ける。青島はかつてドイツの支配下にあったが、第1次世界大戦後に日本が領した町でレンガ造りの建て物が多く、ヨーロッパの香り漂う国際貿易港を有していた。

教育熱心な父、青島という異国情緒たっぷりの環境は少なからず八大少年に影響を与えた。父は早くから音楽の才能を見抜いてピアノを習わせ、小学校4年の時に音楽留学をするためランドセル一つ(行き先の住所と氏名が大きく貼ってあった)を持たせて青島から一人で上京させた。上京してクラシックを習う一方、休日にはエノケンや古川ロッパ一座を観劇し、音楽の楽しさを早くも小学生の時に充分体感したのであった。

一時、青島に帰ることとなるが、ローゼフ・ローゼンストック氏(N響草創期の指揮者)とウィーン音楽院在学時の朋友ダ・カール・ヘルス氏の手解きを受ける幸運に恵まれる。ただただ厳しく教えこむ風潮の日本人教師に比べ、実に楽しく八大少年をのせながらピアノを弾かせた。常に八大少年はヘルス氏に畏敬の念を抱きながら音楽表現の美しさ・素晴らしさを習ったのであった。のちの 八大音楽が形成された原点は、このヘルス氏にあるといっても過言ではない。

中学・高校は実家のある久留米市の名門明善に入るが、再び上京して早稲田高等学院に編入、さらに早稲田大学文学部英文科に入った。大学在学中はジャズピアノに熱中する。『ワセダに 八大あり』の名声は瞬く間にジャズ界へと広がり、バンドを組んで進駐軍キャンプやジャズクラブで演奏する日々が始まる。

昭和34年、ロカビリー映画の音楽を担当することになり、早大の後輩である永六輔氏とコンビを組んでの作詞作曲がスタートする。いわゆる「六・ハコンビ」の誕生である。映画に組みこまれた曲「黒い花びら」が大ヒットし、第1回レコード大賞を受賞する。

以降、このコンビでヒット曲を次々と世に送った。わけても、坂本九ちゃんが唄った「上を向いて歩こう」は空前のヒットとなり、欧米でもヒットチャートを賑わした。殊にアメリカのビルボード誌では「sukiyaki」(スキヤキ)の名で、昭和38年6月、日本音楽史上初めて3週間連続して第一位に輝いたのである。八大さんの音は、欧米の人々の共感も得たのであった。

妻・順子さんとの間にもうけた長子・力丸さんの誕生の時に「こんにちは赤ちゃん」(第5回レコード大賞)、昭和42年には大阪万博に先がけて「世界の国からこんにちは」を発表した。

だれでも口ずさむことのできる名曲を生み、坂本九・水原弘・九重祐三子等の歌手を育て、ジョージ川口・小野満・松本英彦と共に「ビッグフォー」を組んだ八大さんは、心不全のため惜しまれながら齢61で逝ってしまう。

告別式の前夜、6月12日、お通夜が催された。本願寺の僧侶が読経した後、訃報を聞いて駆けつけた日蓮宗の僧侶四人が法華経を読み、お題目を唱えた。朗々たる音声(おんじょう)、情(こころ)のこもったご回向が増上寺会館に響きわたった。そして、導師を務めた梶原北天師(長崎県實相寺住職)が順子さんに言葉をかけた。

「奥さん、宗旨(しゅうし)が違うので失礼かとは思いましたが、ありし日の八大さんの姿を思い浮かべ、有縁の者でお経をあげさせていただきました」

「心のこもったお経をあげていただいて……、ありがとうございます。きっと八大も喜んでいます」

八大さんと北天師にはおかしな出会いがあった。昭和57年ごろ、八大さんは持病の糖尿病のため身心ともにボロボロとなっていた。八大さんの病気を心配した永さんが「長崎のお寺に静養に行かないか」と誘った。平戸でのコンサートを終え、北天師に八大さんを紹介するまではよかったが、急用で永さんは帰京してしまう。残された病床の八大さん、ひとりで2時間の演奏はつらい。そこで北天師とのお喋りと唄でどうにかコンサートを終えた。ところが、「黒い花びら」を衣(ころも)姿で熱唱するコンサートはうけにうけて二人は意気投合。八大さんはその足で實相寺に泊まって北天師の治療をうけることになる。7月26日のことであった。

北天師は自らテルミー療法と整体を4日間にわたって施療したのであった。これが実に効いた。八大さんはみるみる体力を回復し、創作意欲が戻ったのであった。いわゆる「天・八コンビ」の誕生である。

八大さんはメロディーが浮かぶと、紙の切れはしや箸袋にサラサラと書くのが常であったという。ある日、北天師と食事をしていると、八大さんは唐突に、

「北天さん、私に戒名をつけてくださいな」

「冗談はよせよ。宗旨が真宗だから永さんにつけてもらえばいいんじゃないか」

「でも北天さんがつける戒名に興味あるんだよね」

「それじゃ、こんなのはどうかな」

といって、箸袋に“浄奏院法永楽雄日大居士”と認(したた)めた。すると、八大さんは、

「ずいぶん長いな。だけど音楽家だというのはすぐわかりそうですよね」

と満足気であったという。

お通夜で北天師らが読経・唱題する姿に遺族は心うたれた。会ったこともない真宗僧侶との読経の違いは歴然としていた。葬儀後、遺族を代表して順子さんは、

「49日の法要は日蓮宗でしていただけないでしょうか。分家ですので大丈夫です。八大もそれを望んでいると思います。お願いします」

と依頼したのであった。北天師は快く引きうけ、77日忌法要を池上山内の常仙院(野坂法雄住職)で行い帰正受戒式を厳修し、遺骨を本門寺墓地に埋葬した。法号は北天師が箸袋に書いたものだった。

八大さんは恵まれない人々、地方の人々を大切にした。ふだん、音楽を生で聴けない人たちに音の楽しみを提供したのである。海外の日本人学校を巡り、刑務所に受刑者を慰問し、そして身障者を楽しませた。八大さんはいつも、後援者に『今日はいいお客さんを集めていただいてありがとう』と優しい言葉をかけたという。

北天師に導かれ、西方極楽浄土ではなく、行き先を変更し、霊山浄土(りょうぜんじょうど)で「sukiyaki」を今ごろピアノで奏でているのではなかろうか。