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お坊さんのお話

鈴木浄元常任布教師法話「いのちに合掌」H24/3/28

鈴木浄元常任布教師プロフィール:神奈川県横浜市蓮久寺住職

【座右の銘】
我不愛身命 但惜無上道

【得意分野】
檀信徒向けの法話。寺庭婦人研修。総代世話人研修。法話のつくり方、心構えを指導。高座説教。

【コメント】
立正安国・お題目結縁運動の教えを弘めていきたい。宗祖の教えを現代社会にどう弘めていくか、皆様と共に研鑽しましょう。

【お題目】

皆さんこんにちは。私は神奈川県横浜市蓮久寺住職の鈴木浄元と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。

私が住んでおります横浜市も人口がたくさん増えまして、多くの人が住んでいる所でございますけれども、いいような悪いような話がございまして、人が多くなっても仲間同士、絆というのが薄くなっている。

今問題になっている孤立死というものがございます。横浜の旭区という地区で、昨年の12月でございます。新聞の切り抜きを持って参りましたが、普通のお家で母親77歳、そして重度の障害を持った息子さん44歳が孤立死をなさっていた。亡くなっていたという話でございます。周りの人は気付かないで、しばらく経ってから、お二人の死が確認されたと、本当に悲しいことでございます。
人口が多くなっても隣の人が何をしているか、死んでることも分からないようなそのような世の中になってしまったのは悲しいことでございます。町内会に入っていれば、民生委員の方が見回りに来てくれたかもしれません。けれども町内会に入っていないで孤立して亡くなったのでございます。お母さんはきっと重度の障害をお持ちの息子さんと一緒に慎ましく暮らしていらっしゃったと思います。けれども自分が体を悪くなさいましてお亡くなりになって先に亡くなって、その後息子さんも亡くなったと推察するのでございます。
この報道、新聞記事を読みまして、お母さんって偉いなあと思ったのでございます。子供のために働いて、息子のために食事を作ってあげていた。自分の体、病院に行くことも出来ない。けれどもお母さんは一生懸命、子供を養っていたのでございます。お母さんの偉大さというのが改めて感じられたのでございます。

けれども今はそのようなことばかりではございません。子供を捨ててしまう親もいるわけでございます。大聖人様の時代も同じでございます。親孝行な子供は少ないとおっしゃられておられます。
「一谷入道御書」というお手紙がございます。その中に若き夫婦が、夫は妻を愛し、妻は夫をいとおしむ。父母は薄い衣を着てる。
「我はねやは熱し、父母は食せざれども我は腹に飽ぬ。…是は第一の不孝のもの」なり、とおっしゃっておられます。
お父さんお母さんがいても自分はあったかい寝巻きを着ていてもお母さんには薄い寝巻きしかあげない。自分はお腹いっぱい食べてもお父さんお母さんには食べ物を与えない人がいると、これは親不孝の大事のものであるというふうにおっしゃられているわけでございます。このようなことではいけない。やはり恩ある父母を孝養を尽くすということが大切であると大聖人様は私たちに教えていただいているのでございます。

先だってお彼岸がございました。あるお檀家さんの法事がございました。そのご親戚の中に皆さんもご存知かと思いますが、歌手の二葉百合子さんがいらっしゃいました。その二葉百合子さんが歌って大ヒット致しました「岸壁の母」という歌がございます。そのモデルとなったのは石川県出身の端野いせさんでございます。

いせさんは明治32年に石川県羽咋郡にお生まれになり、ご縁がありまして青函連絡船の乗組員である旦那さんと一緒になりまして女のお子さんをもうけたのでございますが、昭和の5年の頃に相次いで旦那さんと娘さんを亡くしてしまいました。函館の資産家である橋本家というおうちから新二さんという男の子を養子にもらいました。新二さんと共に昭和6年に東京の大森に引っ越して参りました。洋裁をしながら生計をたてて息子さんと暮らしておりました。
新二さん、その新二さんは、その養子になった新二さんは大学に入りましたけれども自分は兵隊さんになると言って満州に行くことになりました。満州に行って兵隊さんになるんだ、お母さん申し訳ないですけれども兵隊さんになることを許して下さい、といせさんにお願い致しまして、満州に渡りました。
昭和19年のことでございますが、激しい戦闘で中国の牡丹江という所で新二さんは行方不明になってしまいました。いくら手紙を出しても戻ってこない。本当に心配で心配でならない親心でございます。いせさんはそれでもしんじは帰ってくる、必ず帰ってくると神仏にお願いをしたのでございます。シベリアに抑留された方がたくさんいらっしゃいました。その中に入っているのではないか、そう思ったいせさんでございます。
終戦になりました。引き揚げ船が日本に参ります。多くの方が大陸から日本に戻ってくるのでございます。兵隊さん、そして一般の方、多くの方が引き揚げ船に乗って戻って参ります。京都の舞鶴港という所でございます。いせさんは名簿を見ても、その中に新二さんの名前はないけれども、ひょっとして帰ってくるんじゃないかと思い、その日を目にするために、ひと針ひと針縫いながらお金を貯めて鈍行列車に乗って京都舞鶴まで迎えに行ったのでございます。ああ今日も船に乗ってなかった。岸壁に立って涙を流されたのでございます。そういった方がたくさんその岩壁にいらっしゃったそうです。

それを見て「岸壁の母」という詩が作られました。歌になって全国の人に共感を呼びまして、岸壁の母、二葉百合子さんがまたセリフ入りで歌うことによってまたまたヒットしたということでございます。岸壁に立って、新二、新二とただひたすらに待っていた、いせさん。これも母心。この強いこの母の思いというものが届いたということは、それからだいぶ経った後のことでございました。

新二さん、亡くなっていたという、思っていたけれども、実は中国で生きていらっしゃいました。戦友が訪ねて行って、この方は端野いせさんの息子さん、新二さんだろうということが分かりました。けれども新二さんは帰ってくることは出来ません。中国の人となってレントゲン技師となって家族をもうけているわけでございます。家族のこともあり、今更日本に帰れないということでございます。
けれど、いせさんはやはり会いたい、ひと目でも会いたい、息子新二に会いたいと願い続けました。
何度も戦友たちの勧めによりまして、新二さんはお手紙を書いたのでございます。お母さんにお手紙を書いた。けれどもその時お母さんは病におかされました。病院で81歳、昭和56年7月1日に81歳でお亡くなりになりました。お手紙が着く頃には残念ながら亡くなっていったのでございます。

けれどもその母親の思いが息子さんに通じまして、新二さんに通じまして、親子の絆が結ばれたということがこの岸壁の母のお話でございます。

「三世諸仏の慈悲心は母の苦労と変わらざりけり。」
「三世諸仏の慈悲心は母の苦労と変わらざりけり。」

仏様の心というのはお母さんが我が子を愛する気持ちと同じである。子供が苦しんでいれば早く治るようにして、病気ならば早く病院へ連れていって看病してあげたい、お腹がすいていたら美味しいものを食べさせてあげたいという気持ち、早く治るようにという気持ちで仏様も私たちを導いてくださるのでございます。
法華経譬喩品第三に「今此の三界は皆これ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ我が子なり。しかも今此の所は諸の患難多し、唯我一人のみ能く救護をなす。」というお経文があります。
その仏様の慈悲心を知り、私たちは仏の子として自覚を持ちまして生活していく、このことが私たちにとりまして一番大切なことなのであります。

岸壁の母の端野いせさんのお話をさせていただいて、母親の愛情の深さその心というものは仏様の心と一緒であった。そのことに気付いて私たちは日夜、「いのちに合掌」の精神で、お題目の修行を続けていかなければならないということをお話させていただいて私のお話を終わらせていただきます。

最後にお題目を三返お唱えさせていただきます。

【お題目】