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お坊さんのお話

東孝信常任布教師法話「いのちに合掌」H24/3/28

東孝信常任布教師プロフィール:大阪府柏原市欣心寺住職。法華経の意義を研究課題とし、未熟乍ら現在2ヶ所にて研究学習の場を持つ。法華経、御妙判を通じた日常生活の在り方を解説。

【座右の銘】
進むか、退くか、悩んだ時は、進むがよし

【コメント】
現在、末法のクライマックスを迎えていると思います。今だからこそ宗祖の根本理念に帰らないと、取り返しのつかないことになってしまいます。

【お題目】

ご紹介に預かりました大阪の欣心寺(ごんじんじ)の東でございます。
今、皆様方と一緒にお題目をご唱和させていただきました。

何故でしょう。

つい私たちはものが始まる前にお題目をお唱えしましょう、とお声をかけて、そして共にご唱和させていただきます。私がお声をかけて、じゃあしましょうか、というそれに対して、お題目をご一緒に唱えているのか。それとももっと大きな意味があって唱えているのか。少しそこのところから考えていってみるとお題目という大きな意味が見えてくるのではないでしょうか。

人を見れば仏と思え。ものを見れば菩薩と思え。人様の姿、これは仏様として私たちにいつも働きかけてくれている、ありがたい慈悲の世界という思いを、いかに自分で持つか、というところであると思います。

私たちは自分の存在を自分だけのものと思っている場合が結構ございます。
今おられる方で奥さんの方。奥さんの最低必要条件というのはなんでしょうか?
もしご主人がおられれば、ご主人としての最低必要条件はなんでしょうか?
これをお聞きしますとね、まあ皆さん方もそうでしょうけど、ちょっと悩んで色んなこと考えられると思います。
しかしこれはものすごく単純なことなんです。
旦那がいることが奥さんの必要条件。というのは旦那がいるから奥さんであり、いなければ奥さんじゃないし、奥さんがいるから旦那である。また子供がいるから親であり、親がいるから子供である。
相手によって今の自分の存在を認めさせていただいているということが私たちの日常生活であり、全ての存在によって私が今いる。

そのことに対して感謝を申し上げる、それがお題目に始まりお題目に終わる私たちの生活であります。
しかし、それはどういう形の中で私たちの存在を認めていくのかということになりますと、私たちは仏様を離れて存在はしていないということが、一つの条件になって参ります。

私たち全てのものは母親の胎内から離れ、まあ今、現実的に平均寿命から致しますと80何歳というところまでは生きる、まあこれが今の日本人の平均寿命であります。
生物学的に考えますと、母の胎内に宿って、自分の命が終わってしまう、それで個体がなくなってしまうというのが生物学的なものの考え方でございます。
しかしそれで本当に自分というものは無くなるのでしょうか?

否であります。

私たちの命はずっと存在し続けているのであります。私たちがこの世に生をうけるのは、自分の業因業果により輪廻転生し、父母の体をいただいて私たちはこの世に出現する。
また仏様の意思を引き継いで、迷える衆生がおればその迷える衆生を救わんがために願を以って生まれてくる。
その時に父母の体を借りて今私たちは存在しているということであります。
このことを日蓮大聖人は忘持経の事ということの中で

「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。」

自分の肉体の全て父母から受け継いだものであるとおっしゃっておられます。
そしてそれの裏付けとしては法華経方便品には、

「諸欲の因縁を以って/三悪道に墜堕し/六趣の中」

これは六道、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天までの世界です、それに

「輪廻し/備さに諸の苦毒を受く/受胎の微形」

これは母親の体内に宿して

「世世に常に増長し」

生まれて、そして肉体が成長していく、と説かれ、また法師品の中には、

「妙法華経を/受持することあらん者は/清浄の土を捨てて/衆生を哀れむが故に生ずるなり/当に知るべしこの(如きの)人は/生ぜんと欲する所に自在なれば/能く諸のこの悪世において/広く無上の法を説くなり」

と説かれております。

今生、今持っている肉体だけが命の存在ではありません。
お釈迦様が法華経の如来寿量品をお説きになられました。仏様の命は始めなく終わりなく、永遠不滅であるとお説きになられたわけです。
これをぱっと考えてしまいますと時間だけが永遠のように思いますけれども、永遠の存在とは時間だけの無限性を言うのではなく、そのことにより空間的にも無限大の存在になるということであります。
空間的に無限大になるということは、今私たちの存在している全ての空間、それは仏の存在ということになれば、今私たちが存在している私自身もその仏の存在の中に住してる、住んでいるということであります。
下の地獄界から上の菩薩界に至る苦界の存在は無始の仏界、永遠なる仏様に包まれ、仏様の世界も無始の九界の中におのずから備わっている、ということが大聖人の開目抄の中に説かれております。
このことにより私たちの命は久遠の御本仏といつも共に存在しているということであります。

始めに皆様方とご一緒にお題目をお唱えしたこのお題目は、そういう大きな意味を持ったお題目でございます。私たちの命は仏様に備わる命であり、仏様に備わっている命であるのであります。

本来人々に備わっていることを、このことをご存知であった常不軽菩薩というお方は、道行く方々に対し、合掌礼拝されました。
私たちの命の根本の礼拝はここにあるのでございますが、単なる合掌では意味がございません。
仏様に備わる命であり、仏様に備わっている命、その方に対して無限の過去、久遠と申しますが、その時に仏様よりいただいた仏様の種、その種を忘れてしまったことを思い出していただくために、種を復活させるために、唱えるお題目、これが日蓮大聖人の弟子檀那、日蓮宗の教師の方、檀信徒の方がお唱えしていただくお題目でございます。

現代に生きる人々にとって、仏様と共に生きていると考えておられる方はどれぐらいおられるでしょうか。
仏教徒といわれる方でもこのような思いを持った方は少ないように思います。
このような方を法華経では心を失った子、失心の狂子と申しますが、この子のためにお釈迦様は、私どもが先程お唱えしたお題目というお薬を留め置かれまして、日蓮大聖人に現在の私たちに服するようにとお渡しになられたのです。
お題目をお唱えさせていただいて、受け手となる人々が心に仏様を備える命、仏様に備わっている命ということで、お互いにお題目をお唱えし合える世の中、そして久遠御本仏釈迦牟尼仏と常に一緒に存在できる常寂光土という浄土をこの世に顕現することが私たちのお題目を唱える者の役割でございます。

この地球という物体は今の宇宙物理学からすれば30億年か40億年後には消えてしまいます。しかし、仏様が述べておられる真の存在の常寂光土という所はそういうものを越した世界にございます。
私たちの信仰の世界は真にその常寂光土を作るため、そのためにはお互いに仏様の命としてその身を持ち、共に生きていることを敬いながら、まだお題目を知らない方、常寂光土という本当の真の浄土があるということを知らない方のために広めていく、それが私たちの真に願うお題目の在り方だと存じます。

どうぞこれからもご一緒にご精進して参りましょう。本日は誠にありがとうございました。
それでは共にお題目の世界へ入らせていただきまして、ここが常寂光土の入口になるよう、皆さん方と共にご祈念申し上げたいと思います。

【お題目】