
命をかけて遊ぶ子ども
「為すことのひとつひとつが楽しくて命かけたり遊ぶこどもら」と書かれ、子どもが毬をつく姿が描かれた色紙が事務所の壁に掛けてあります。奈良県にある山岳信仰の本山のご住職が書かれたもので、40年ほど前に買い求めたものです。
私には2歳になる孫がいますが、孫と遊んでいるとき、この言葉がなんら誇張でないことがよくわかりました。お寺の本堂の外階段で遊ばせているときのことです。3段ほどのそれほど高くはない階段なのですが、その一番上まで上がったとき、「おいで」と声をかけましたら、私の方を振り向いた途端、即座にジャンプしてきました。半身だった私はあわてて片手で受け止め事なきをえましたが冷や汗ものでした。「危ないから降りなさい」ぐらいのつもりで言った「おいで」に孫は素直に反応したのです。それは別に私に対して全幅の信頼をおいてした行動ではないはずです。2歳くらいの子どもにとっては、危ない危なくないの判断はできず、「命をかけてる」つもりなどさらさらなく、ただただ自分がやりたいことを無心に無邪気にやっているだけなのでしょう。だから子どもは可愛いのですが、同時に、なんでそんなことをするの! ということばかりして、親はハラハラ、ドキドキ、時には情けなくなることもあります。
お釈迦さまは私たち一人ひとりを「ことごとくこれ吾が子なり」とお示しになられますが、そのお釈迦さまには私たちの姿はどう映っているのでしょうか。
もしかしたら、いっぱしの大人ぶっている私たちも、命をかけてやってはいけないことばかりして、危なっかしい遊びに興じている、2歳の子ども並みに手のかかる存在と映じているのかもしれませんね。
そんな子どもも少しずつ成長して、いつか親がホッとする日がきます。お釈迦さまにも一日も早くホッとしてもらわなければなりません。