
我慢でなく辛抱だ
最近この世の中、新聞を読んでも、テレビのニュースを見ても「エッ、どうして、こんなことをするの」と思うことが多くなりました。
自分の心を落ち着けて、物事をじっくり見極めれば、こんな事件は起きないだろうな、と思うことがたくさんあります。我慢、辛抱がなくなってきているのではないでしょうか。
我慢と辛抱は同じような意味があります。「我慢」は、辞書を引くと、
○自分をえらく思い、他を軽んずること。高慢。
○我(が)を張り、他に従わないこと。強情。
○耐え忍ぶこと。忍耐。「我慢がならない」
我慢は仏教では煩悩の一つで自分に執着することです。「法華経勧持品」に悪世の僧侶たちは、悟っていないのに悟ったと思い、自分のみが偉いものと思い上がっている心で満ちていますと説かれています。
お師匠さまが弟子の「我慢(慢心がある)」をいさめるために、「お前の心は我慢だぞ」と言っていたのが、いつの間にか耐え忍びなさいに転じたと言われています。
我慢は人に言われてすることが多いようです。
「花壇の中の雑草が大きくなって、お花が見えなくなっているよ。遊んでいないで。草取りをしなさい」と命令されて渋々「我慢」してすると楽しくありません。投げ出したくなります。
「辛抱」は辞書に(一説に、「心法」からという。「辛棒」と書くのは当て字)つらさをこらえしのぶこと。忍耐。また、つらい仕事でも我慢して勤めること。と載っています。
「アッ。雑草が大きくなって、お花がかわいそうだ、草取りをしてやろう」と率先して汗を流して働く、自分から進んでする「辛抱」は、やり遂げることができます。
そうです、我慢ではなく辛抱です。