ゼロから学ぶ日蓮聖人の教え

再度、立正安国をうったえる

安国論副状

【あんこくろんそえじょう】

日蓮聖人は文応(ぶんおう)元年〈1260〉、『立正安国論』〈以下『安国論』と表記〉を執筆し、鎌倉幕府に提出なさいました。当時の日本は、正嘉(しょうか)元年〈1257〉の鎌倉大地震を皮切りとして、天変地異、疫病の流行、飢饉などの災害が連続していました。そうした災害の原因を探り、そしてこの苦難を仏教によっていかに克服すべきかを論じた一書が、『安国論』です。

この『安国論』の中で聖人は、誤った信仰の流行に速やかに対処しなければ情勢はますます不安定となり、いずれ「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)」、つまり他国から侵略を受けるだろうと警告しました。はたして、それから九年後の文永五年〈1268〉。当時の世界最大級の国家であり、侵略の猛威をふるっていた元*1から日本へ、従属を迫る国書が届きました。

この元からの国書到来は、まさに聖人が警告した「他国侵逼難」の実現に他なりませんでした。かくして、ご自身の持論が的中した形となった聖人は、再び『安国論』を清書し直し、時の執権・北条時宗に献上します。その際に添えられたお手紙が、今回取り上げる『安国論副状』となります。

『安国論副状』は、後半部が欠落していると見られ、前半部のみが現存しています。そこには、まず「時宗公にはお目通りしたことはないが、国の一大事に際して文書を奏上するのは世の習いである」と前置きした上で、『安国論』の由来が、以下のように述べられています。

そもそもこの『安国論』は正嘉元年〈1257〉の鎌倉大地震をきっかけに、あらゆる経典を参照して構想したものである。その論旨は、為政者が正しい仏教を信仰しないために、日本国中の守護神たちが怒って災害を起こしている。このまま対処しなければ他国から侵略を受けてしまうだろう・・・・・というものである。これを一通の文書にまとめて『立正安国論』と題し、正元二年〈文応元年〉に最明寺入道殿*2に献上したのだ・・・・・。

こうして聖人は『安国論副状』を添えて、『安国論』を北条時宗に献上します。しかし時宗は、献上された『安国論』を黙殺。またもや幕府は、聖人の警告を無視してしまいます。その結果、とうとう文永十一年〈1274〉、元の大軍が日本に侵攻したのでした*3。

 

注釈

*1
中国王朝の一つ。モンゴル帝国第5代の世祖フビライが建てた国。南宋を滅ぼし、高麗・吐蕃(とばん)を降し、安南・ビルマ・タイなどを服属させ、東アジアの大帝国を建設。都は大都(北京)。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。大元〈1271-1368〉〈広辞苑第6版参照〉

*2
前執権・北条時頼〈1227-1263〉のこと。康元元年〈1256〉時頼は執権を辞し、建長寺内に一寺を建立した。これが最明寺で、このため最明寺入道とよばれた。〈日蓮聖人遺文辞典歴史編参照〉

*3
文永の役。当時の中国本土を支配していた元による、日本の侵略を目的とした九州北部への2度にわたる侵攻〈元寇・蒙古襲来〉の1度目。文永11年〈1274〉

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