ゼロから学ぶ日蓮聖人の教え

『法華経』の命を継ぐ

上野殿御返事

【うえのどのごへんじ】

今回取り上げる『上野殿御返事』は建治(けんじ)元年〈1275〉もしくは建治三年〈1277〉に書かれたお手紙で、題号にある「上野殿」が麦・川海苔・薑〈はじかみ:生姜〉を贈ってきたことに対するお礼状です。

「上野殿」とは、幕府の御家人であった南条兵衛七郎(なんじょうひょうえしちろう)と、その息子である南条七郎次郎時光(なんじょうしちろうじろうときみつ)・南条七郎五郎(なんじょうしちろうごろう)ら一族を指します。この「南条」の姓は、もともと伊豆国田方郡南条の地を所領していたことに由来し、そして聖人と交流のあった時代には駿河国富士郡上方上野郷の地頭であったことから「上野殿」とも呼ばれています。

南條兵衛七郎は鎌倉で日蓮聖人の信者となりましたが、文永(ぶんえい)二年〈1265〉に早くも逝去してしまいました。遺された彼の妻〈上野尼御前〉と息子の時光は、文永十一年〈1274〉に身延に入山されてからの聖人を熱心に支援しました。この『上野殿御返事』は、おそらく時光に宛てた礼状であると考えられています。

まず聖人は、上野殿がこうして御供養品を贈ってくることについて「いつもの習慣として当然のように受け取ってしまい、ついつい恩知らずの凡人の心が出ております」と自戒なさいます。そして当時、上野殿が浅間神社の大宮造営という事業に関わっていたことに触れ、「元寇によって社会が混乱して騒がしい中、大事業に携わっておられるのは大変なことでしょう。しかも領民たちを飢えさせぬため、色々と心をくだかれていることと思います」と慮られます。そして、そのように多忙な中でも、欠かすことなく御供養を身延の山中へと贈ってくれる上野殿に感謝の念を表されます。その御供養は、まるで親鳥が雛を養うように、灯火に油を注ぐように、枯れかけた草に雨が降るように、飢えた赤子に乳を与えるように、『法華経』の命を継ぎ、過去・現在・未来の三世にわたる仏たちを御供養することに他ならない……と聖人は述べられます〈「法華経の御いのちをつがせ給事、三世の諸仏を供養し給へるにてあるなり」〉。

ここで、日蓮聖人に対して御供養をすれば「『法華経』の命」を継ぐことになる、という表現が目を引きます。日蓮聖人は身命を捧げて『法華経』を実践されているので、いわば『法華経』と一体化した存在であり、あるいは『法華経』の世界を実現する存在として位置づけられます。したがって日蓮聖人に供養をすることは、『法華経』自体を供養することにもなり、そして日蓮聖人への供養を通して、弟子・信徒たちは『法華経』の世界に参入できることになるのです*1。

こうして日蓮聖人への供養を通して『法華経』の命を継いでゆくことは、過去・現在・未来の三世にわたって仏様たちを供養することになります。さらに、過去・現在・未来にわたって仏様たちを供養すれば、全世界の生きとし生ける者たちの目を開かせる功徳がもたらされる……とも重ねて述べておられます〈「十方の衆生の眼を開く功徳にて候べし」〉。日蓮聖人は『開目抄』という題名の代表的著作を書いてもおられますが、迷える衆生たちの目を開くことは、仏教の大きな目的です。

このように『法華経』の命を継ぐことは、仏教の目的達成をもたらすわけですが……今一度まとめておきますと、「『法華経』の命を継ぐ」とは、『法華経』の実践者を支援し、その実践に連なってゆくこと、という意味になりましょう。そうして『法華経』が実践され続ければ、そこに仏の世界が具現化し続けることになり、まさに「仏の命を継ぐこと」になるのです。

『法華経』は久遠の仏、すなわち永遠の仏様の命を説きます〈如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六〉。その仏様の命は「『法華経』の命を継ぐ」ことによって永遠たり得る、つまり「『法華経』の実践を絶やさぬようにする」という耐えまぬ努力によってこそ実現する、といえましょう。

 

注釈

*1
【参考】桑名法晃「日蓮における師自覚について: 供養の説示を中心に」『印度学仏教学研究』 65(1), pp.137-140, 2017年。

一覧へもどる