ざっくり納得法華経のすべて

第16章

久遠のお釈迦さまの開顕

如来寿量品

【にょらいじゅりょうほん】

“末法の唱導師”として、お釈迦さま滅後末法において法華経を弘める大任を担い登場した地涌(じゆ)の菩薩。お釈迦さまの秘蔵の弟子というその関係性から、弥勒(みろく)菩薩をはじめとする一会の大衆の疑いがますます深まる中、これまで秘されてきた真実が開顕(かいけん)*1されます。

「如来の真実のことばを信解(しんげ)しなさい」という、お釈迦さまの三度にわたる誡めに対し、一会の大衆が「信受(しんじゅ)」することを繰り返し誓うや、「諦(あきら)かに聴け、如来の秘密神通の力を」と仰せあって、ここに、お釈迦さまの本当のお姿とそのこころが明かされていく、これがこの第16章如来寿量品となります。

この寿量品は、法華経全28章の肝心であるとともに、お釈迦さまが説かれた一切経の肝心であり、特に「自我偈(じがげ)」の結びの一句に、久遠のお釈迦さまの切実な悲願が吐露されています。

久遠のお釈迦さま
「お釈迦さまの言葉を信じます」というみなの求めに応じて、お釈迦さまは真実を語り出されます。

「みな、今ここにいる釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)は、釈迦族の王子として生まれ、出家し、ここにおいてはじめて悟りを開いた仏であると思っていることでしょう。しかし、実は成仏してから、すでに無量無辺の年月が経っているのです」と。

その無限大の数を「五百億塵点劫(ごひゃくおくじんでんごう)」の譬えをあげ*2、それよりも、はるかはるか“久遠”の昔に仏となり、それ以来、この娑婆世界および他の多くの世界において、あらゆるものに姿を変え、あらゆる手段を尽して、常に衆生のために法を説いてきたことが明かされたのです。

久遠の昔から、永く遠く未来にわたって、常住不滅の寿命をもつものの、滅度に入るというのは、衆生に恋慕(れんぼ)渇仰(かつごう)の心を起こさせるためでありました。

未来濁悪の世を救うために、この法を付嘱(ふぞく)して地涌の菩薩を召されたのも、末法の衆生を救い仏となす、ただそのためであると、さらに譬喩をもって心の内を明かされていきます。

良医治子(ろういじし)の喩え*3
良医〈名医〉である父の不在中、多くの子どもたちは戯れて毒薬をのみ、苦しんでいました。

父は帰るやいなや驚き、苦しむ子どもたちを救うために、あらゆる妙薬を調合し、色も香りも味わいも良い、とっておきの良薬を与えました。

「この良薬を飲めば、すぐにその苦しみから逃れることができる」という父の言葉を聞き、本心を失わない者は、この薬を服し、たちまちに病が癒えていきます。

しかし、本心を失ってしまった狂える者は、父に助けを求めるものの、どうしてもこの良薬を飲もうとしません。

そこで父は、方便を設け、「この良薬をここに置いておく。自分たちで取って飲みなさい。治らないなどと心配することはない」と言って他国へ行き、そこから使いを遣わして子どもたちに告げさせました。

「あなたたちのお父さんは亡くなりました」と。

これを聞いて、狂子も憂悲苦悩(うひくのう)の果て、ついに目覚め、こころを取り戻し、留め置かれた良薬を服すと、病はたちまちに癒えていきました。

そのことを聞いて、父も帰り来ってともに喜んだのでした。

このたとえ話に登場する良医(父)とはお釈迦さま、本心を失った子どもは私たち末法の衆生を指しています。そして、私たち末法の衆生を救うために特別に用意された良薬が“お題目”であり、このお題目の大良薬を服ませるために、久遠のお釈迦さまから遣わされた使いが、前15章で登場した“秘蔵の本弟子”地涌の菩薩であります。

ここに、久遠のお釈迦さまの偉大なる智慧と大きな慈悲の心、巧みな方便といった“如来の秘密神通の力”が遺憾なくあらわされ、さらに重ねて「自我偈」の中で、久遠のお釈迦さまのこころが説かれていきます。

信仰の心得~すなおに、まじめに、しんけんに~

「質直(しちじき)にして意(こころ)柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶(とも)に霊鷲山に出づ
(質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 自我及衆僧 倶出霊鷲山)」

久遠のお釈迦さまは、常にこの娑婆世界において、私たちに慈愛の眼差しを向け、手を差し伸べられています。“すなおに、まじめに、しんけんに”お釈迦さまの教えを信じる者は、常にお釈迦さまと倶にあって、法華経の救いの世界へと包み込まれていきます。

私たちがお唱えする「南無妙法蓮華経」のお題目。

この「南無」は、一般に「帰依(きえ)・帰命(きみょう)」と訳されますが、その意味するところは、“すなおに、まじめに、しんけんに”というこころであり、ここに信仰の心得の極意が易しく明確に示されています。

久遠のお釈迦さまのこころ~「自我偈」結びの一句~

「毎(つね)に自(みずか)ら是(こ)の念を作(な)す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと
(毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身)」

すべての衆生を「速やかに仏となす」。

これが久遠のお釈迦さまがいつもいつももっている大きな慈悲のこころであります。

「速やかに」とは、この先“いつか”ではなく、“たった今” “今すぐ”のこと。それは「無上道」に入ることによって、はじめて可能となります。

では、今すぐ仏となる道「無上道」に入るとは、何を意味しているのでしょうか?

それは、私たちのために特別に用意された大良薬であるお題目を、ただただ、すなおに、まじめに、しんけんに、信じ唱えていくこと。そのために、久遠のお釈迦さまはあの手この手を尽くされ、地涌の菩薩も倶に力を尽くしているのです。

日蓮聖人こそ、“すなおに、まじめに、しんけんに”、久遠のお釈迦さまの御こころを受け継ぎ、常に久遠のお釈迦さまと倶にあって、すべての者を今すぐ仏となす、ただそのためだけに一生を捧げられたのでありました*4。

この自我偈の結びの一句に、久遠のお釈迦さまの尊い御こころも、私たちが速やかに仏になる道も説き明かされているのです。

 

注釈

*1 開顕:これまでの仮の教え・仮の姿を打ち開けて真実を顕(あら)わし示すこと。

*2 第7章化城喩品(けじょうじゅほん)では「三千塵点劫の過去」の大通智勝仏について説かれておりましたが、ここではそれよりもさらにはるか遠い久遠の昔を表す譬えとして、「五百億塵点劫」という表現が用いられています。

*3 法華経に説かれる譬えの中で、「法華七喩(ほっけしちゆ)」に数えられるたとえ話の第七番目。
法華七喩
譬喩品第三―――――三車火宅(さんしゃかたく)の喩え
信解品第四―――――長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え
薬草喩品第五――――三草二木(さんそうにもく)の喩え
化城喩品第七――――化城宝処(けじょうほうしょ)の喩え
五百弟子受記品第八―衣裏繋珠(えりけいじゅ)の喩え
安楽行品第十四―――髻中明珠(けいちゅうみょうじゅ)の喩え
如来寿量品第十六――良医治子(ろういじし)の喩え

*4 日蓮聖人が弘安3年12月59歳の時に書かれた『諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)』には次のように説かれています。
「今日蓮は去(い)ぬる建長五年〈癸丑(みずのとうし)〉四月二十八日より、今弘安三年〈太歳庚辰(たいさいかのえたつ)〉十二月にいたるまで二十八年が間、また他事なし。ただ妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計(ばか)りなり。これすなわち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。」(昭和定本日蓮聖人遺文1844頁)。
日蓮聖人の“立正安国”実現のための一貫した行動も、すべてこの久遠のお釈迦さまの悲願を成就する、ただその一心にあったのです。

一覧へもどる