●心には財を積み、常に軽んじない振る舞いを
崇峻天皇御書
【すしゅんてんのうごしょ】
今回取り上げる書状『崇峻天皇御書』は、日蓮聖人の代表的な信者であった四条頼基〈しじょうよりもと〉に宛ててのお手紙です。
四条頼基は、またの名を「中務三郎左衛門尉」といいました。「中務」は彼の父の官職、「三郎」は通称、「左衛門尉」は彼自身の官職名です。「左衛門尉」は帝の住まいの門を警備する役職の一つで、唐では「左金吾校尉」といわれました。そのため「四条金吾」という通称で、彼は今日でも親しまれています。
このように多くの呼び名がある四条金吾ですが、鎌倉幕府の北条氏につらなる一族であった江間氏に仕えていました。しかし主君である江間氏は、金吾の日蓮聖人への信仰を不審に思っておりました。ことに建治三年〈1277〉、江間氏が信奉していた天台宗僧侶の龍象房を、日蓮聖人の弟子である三位房が問答で論破するという事件が起こります〈桑谷問答〉。この一件をきっかけに金吾は江間氏から不興を買い、さらに同僚からの妬みもあって、非常に苦しい立場に置かれることになります。
ところが同年九月、流行の疫病に江間氏は倒れてしまいます。そこで急遽、謹慎していた金吾が呼び戻されることになりました。実は金吾は医術に長けていたのです。金吾の医師としての腕前は確かなもので、日蓮聖人も晩年に胃腸を悪くされた折、金吾の処方した薬が「妙法蓮華経の良薬」かと思えるほどによく効いたというお礼状を書いておられるほどです〈『中務左衛門尉殿御返事』〉。
こうして一旦は悪くなっていた主君・江間氏との関係が改善のきざしを見せた、まさにそのタイミングで書かれたお手紙が、今回取り上げる『崇峻天皇御書』となります。日付は建治三年九月十一日となっています。
まず日蓮聖人は、「あなたの主君である江間氏は、あなたの『法華経』そして日蓮への信仰を、信用ならぬと思っておられるようだ。しかしあなたは主君のもとで『法華経』の供養を続けているのだから、その祈りの功徳は主君にも及ぶことだろう」として、江間氏の病気が平癒することを示唆しておられます。
「たとひ上は御信用なき様に候へども、との(殿)其内にをはして、其御恩のかげ(蔭)にて法華経をやしなひまいらせ給候へば、偏に上の御祈とぞなり候らん」
そこで聖人は、釈尊の信者であった耆婆大臣の故事を引いておられます。耆婆大臣は、釈尊と対立した提婆達多を信奉する阿闍世王に仕えておりました。しかし、そんな仏の敵である阿闍世王の下にいながらも、耆婆大臣は信仰を捨てることなく釈尊へのご供養をつづけました。その功徳は阿闍世王にも及んだため、王は最終的に心動かされて釈尊に帰依することになりました(こうして阿闍世王は『法華経』の聴衆にも列なり、序品第一にその名が挙げられています)。
「阿闍世王は仏の御かたきなれども、其内にありし耆婆大臣、仏に志ありて常に供養ありしかば、其功大王に帰すとこそ見へて候へ」
医師であった耆婆大臣を、医術に長けた金吾になぞらえる。そして提婆達多を信奉した阿闍世王に、龍象房を信奉した江間氏をなぞらえる……この見事な見立てによって日蓮聖人は、阿闍世が功徳を得て改心したように、いずれ江間氏も功徳を得て改心なさるだろうと、金吾を励ましているのです。
このように、金吾が苦境にあっても地道に徳をつんでいたので、ついに認められる時がきたことを言祝いでおられるわけですが、これを聖人は「内薫外護」という仏教用語にあてはめておられます。
「仏法の中に、内薫外護と申大なる大事ありて宗論にて候。法華経には我深敬汝等」
「かくれ(隠)たる事のあらはれ(顕)たる徳となり候なり」
香炉の中でたいたお香の良い匂いが外に漂い出るように、隠れている内面の徳は必ず外面にあらわれ出て利益をもたらす……これが「内薫外護」という大事な法門です。
この法門は『法華経』では常不軽菩薩品第二十に説かれている、と聖人はいわれます。常不軽菩薩品には、その品題に冠されているように常不軽菩薩という菩薩が登場します。この菩薩は釈尊の前身で、出会う人のすべてに「我、深く汝等を敬う〈我深敬汝等〉」、私はあなたたちを深く敬います、と呼びかけて合掌礼拝して歩いた人物です。まさに、人々の内面に薫る徳〈内薫〉を拝んだわけです。
ただ、そうして拝まれた人々は、あまりの突拍子のなさに戸惑ってしまいます。そこで彼らは常不軽菩薩を不審者扱いして疎んじ、軽蔑するようになりました。他人を常に軽んじない〈常不軽〉菩薩は、常に軽んじられている菩薩になってしまいました。しかし後に人々は改心して常不軽菩薩の弟子となり、そして常不軽菩薩が釈尊に転生した際は、その直弟子となりました。こうして、かつて不軽菩薩が拝んだ「内薫」が、目に見える形で外に表れ出た〈外護〉という帰結となりました。
誰しも、内には徳を秘めている。この徳を、内に秘められた仏の性質、あるいは成仏する可能性と解して「仏性」と呼びもします。内に秘められた仏性の薫(かお)りは、必ず外に表れる……こうして聖人は、不遇を囲いながらもようやっと復権の兆しが見えてきた金吾を賞賛したのでした。
ただし油断は禁物である、と聖人は釘を刺されます。内に秘めた徳が必ず外に表れるように、内に隠した悪心も必ず外に表れるからです。
「殿は一定腹あしき相かを(面)に顕たり。いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知せ給へ」
四条金吾は一本気な男であったがゆえに、怒りっぽい性格でもあり、しかもその怒りの感情がすぐに顔に出てしまう性質でした。金吾殿、あなたは腹の中に抱えている悪い感情が、すぐに顔に出てしまう性格です。神々も、いかにあなたを大事に思っていても、腹の中に悪い心を抱えている者を守ってはくれません……と聖人はいさめておられます。
特に今は、ようやっと復権の兆しが見えてきたという、大変に重要でデリケートな時期です。足元をすくわれぬよう、慎重に立ち振る舞わねばなりません。しかし金吾殿は直情型の怒りん坊ですから、私の言うことを聞いて大人しくしてはくれないでしょうね。それならば、もう私の祈りの力ではどうしようもありません。私がいかに貴殿のために祈ろうと、貴殿がぶちこわしにしてしまうのでは、ラチがあきませんから……と、日蓮聖人は少々皮肉っぽく、金吾を当てこすっておられます。
「殿は腹悪き人にて、よも用ひさせ給はじ。若さるならば、日蓮が祈の力及がたし」
一見すると嫌味たらしくも感じられますが、これは気心が知れた者同士ゆえのユーモラスな「からかい」なのでしょう。ここに聖人の、ユーモアあふれる温かな人間性を見ることができます。
そのため聖人は金吾をからかってばかりではなく、つづけてちゃんとフォローなさいます。とはいえ貴殿のその困った直情ぶりは、謹厳実直さの裏返しであることも、よくよく分かっておりますよ……そう含ませながら、聖人は龍口法難について回顧されます。
文永八年〈1271〉、日蓮聖人は幕府によって不当に逮捕され、処刑場であった鎌倉の龍口にてあわや首を斬られそうになりました。この時、聖人を護送する馬にとりすがって涙を流し、後を追おうとしたのが四条金吾その人でした。結局、斬首は中止となり、佐渡への配流へと減刑になったのですが、聖人は金吾のまさに「懸命」の思いを意気に感じておられました。そこで翌年、佐渡から金吾に主著『開目抄』を贈られたのです。
「返返今に忘れぬ事は頚切れんとせし時、殿はとも(供)して馬の口に付て、なきかなし(泣悲)み給しをば、いかなる世にか忘なん。設殿の罪ふかくして地獄に入給はば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしら(誘)へさせ給にも、用ひまいらせ候べからず。同地獄なるべし。日蓮と殿と共に地獄に入ならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ」
かえすがえす、今も忘れられないことには、私が首を切られそうになった時、貴殿はお供をして馬にすがりつき、泣き悲しみなさいました。たとい貴殿の罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあらば私は、釈尊からどんなに「あなたは成仏しなさい」と誘われても受け入れず、同じく地獄にお供しましょう。この日蓮と貴殿とが共に地獄に入ったならば、釈尊も『法華経』も地獄にいてくださることでしょう……。
四条金吾は処刑場に同行し、運命を共にしようとしてくれたのだから、彼が地獄に行くならば同行しよう、きっと釈尊や『法華経』までも同行してくれるだろう、と聖人は仰っています。この師弟の信頼の深さ、熱く厚い信仰の絆に、思わず心打たれてしまいます。
ただし聖人は、なお金吾に釘を刺すことを忘れません。そこでいよいよ、この書状の題にも名が冠されている、崇峻天皇の故事が引かれます。
「日本始て国王二人、人に殺され給。其一人は崇峻天皇也。此王は欽明天皇の御太子、聖徳太子の伯父也」
「有時、人猪の子をまいらせたりしかば、かうがい(笄刀)をぬきて猪の子の眼をづぶづぶとさゝせ給て、いつか(何日)にくし(憎)と思やつ(奴)をかくせんと仰あり」
「馬子我事なりとて東漢直駒・直磐井と申者子をかたらひて王を害しまいらせつ。されば王位の身なれども、思ふ事をばたやすく申さぬぞ」
日本という国が始まって以来、殺された国王が二人おりました。そのうち一人が崇峻天皇、かの聖徳太子の伯父にあたる人物です。この崇峻天皇は、腹にどす黒い感情を抱いている人でした。ある時、猪の子の目に刀をズブズブと刺して、「いつの日か、憎き奴もこうしてくれようぞ」と独り言を漏らされました。その噂が蘇我馬子の耳に入り、馬子は「その『憎き奴』とは、私のことに違いない」と思い込み、震え上がりました。そこで馬子は先手を打ち、人を使って崇峻天皇を殺害させたのでした。天皇ですらそんな目に遭うのだから、貴殿も言動には十分気をつけるのですよ……と、日蓮聖人は重ねて仰るのでした。
ことば、立ち振る舞いには、十分気をつけるように。そう再三繰り返してこられた聖人は、次のように述べられて、結論とされています。
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬しはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
釈尊が生涯かけて説かれた教えの肝心は『法華経』であり、その『法華経』による修行の肝心は常不軽菩薩品にあります。常不軽菩薩がどんなに軽んじられても怒りを露わにせず、人々を敬って礼拝をつづけたこと、そこにどんな意味があるのかを、よくよく考えてご覧なさい。教えの主である釈尊がこの世に出現なさった本意は、人の振る舞い方を示すことにあったのですよ……。
常不軽菩薩のように、他人を軽んじることなく、その内に秘められている徳を敬いなさい。そして他人から軽んじられても怒ることなく、自分の内に徳を積んでゆきなさい。そうして内に積んだ徳は、いつしか内から外へと薫って、必ずや貴殿のためになりましょう、と日蓮聖人は言っておられるのです。
こうして「内薫外護」の利益によって、今はまだまだ疎んじられている貴殿も、そのうち評判が鰻のぼりになるでしょう、と聖人は励まされます。
「中務三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ね(根)もよ(吉)かりけりよかりけりと、鎌倉の人々の口にうたはれ給へ。穴賢穴賢。蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給べし」
あの中務三郎左衛門尉さん(四条金吾)は主人のためにも、仏教のためにも、世間においても、心根の良い人だ、良い人だ、と鎌倉の人々に謳われるようになりましょう。もったないなくも、ありがたや。ともかく、蔵に貯めた財産よりも、我が身に積んだ財産の方が優れているのです。そして身に積んだ財産よりも、心に積んだ財産こそが第一なのです。この手紙をお読みになってからは、心に財産を積んでください……。
けだし名句です。蔵の財より身の財、身の財より心の財が優れている、というのは本当に身につまされるような言葉です。お金や高級品などを貯め込むのもいいですが、真に豊かな人生を送るには、心に徳を積むことです。それが一番の財産となるのです。
そこで心に徳という財産を積み、釈尊の本意によって常不軽菩薩のように振る舞い、「内薫外護」の功徳を現しましょう……この日蓮聖人の言葉は、直接向けられたところの四条金吾を通して、今日に生きる私たちにも真っ直ぐ届いているのです。



