第23章
●真心からの供養
薬王菩薩本事品
【やくおうぼさつほんじほん】
本章から終章となる普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第28まで、教えが説かれる場所が再び霊鷲山(りょうじゅせん)に移ります。ここからは、各章において、さまざまな菩薩の実践のすがたが示され、法華経の功徳のすばらしさが説かれていきます。
薬王菩薩の“難行苦行”についての問いから始まる本章は、はるか昔、日月浄明徳仏(にちがつじょうみょうとくぶつ)のもとで法華経を聞き、一心に修行した一切衆生喜見菩薩(いっさいしゅじょうきけんぼさつ)が、仏さまと法華経への感謝と報恩のために、自らの身体を焼いて供養した“捨身供養(しゃしんくよう)”*1について説かれます。「本事」とは菩薩の過去世の行いを説くもので、一切衆生喜見菩薩は今の薬王菩薩です。この薬王菩薩の過去世における“捨身供養”のこころが明かされるのが、第23章薬王菩薩本事品となります。
仏と法華経への恩
日月浄明徳仏より法華経を聞いた一切衆生喜見菩薩は、精進し、一心に仏を求め、現一切色身(げんいっさいしきしん)三昧という力を体得しました。
「この力を得ることができたのは、法華経を聴聞した功徳によるもの。何とかしてその恩に報いたい…」
仏さまと法華経に対する感謝の念を、一切衆生喜見菩薩はいよいよ強くしていきます。
“捨身供養”
一切衆生喜見菩薩は、まず体得した神通の力(三昧の力)によって、蓮華の花や、きわめて価値の高い栴檀(せんだん)の香をふらして、仏さまを供養しました。
しかし、この供養だけではまったくこころが満たされません。どうしたら、もっと、この感謝の思いを表すことができるだろうか、この大きな恩に報いることができるだろうか…
そこで、一切衆生喜見菩薩は、身をもって供養することを決し、自らの身を燃(とも)して、その光明によってあまねく世界を照らしました。
この供養のすがたをみた仏さま方は、みな同時に一切衆生喜見菩薩のこころをほめ讃えられました。
「これこそ真の精進です。これを真の法をもって如来を供養するものといえましょう」
「これこそが第一の布施であり、あらゆる布施のなかでも最もすぐれたものです。なぜならば、法をもってもろもろの如来を供養するからであります」と。
“真心”からの供養
ここで仏さま方が称賛されている“法をもって”の供養とは、いかなる“こころ”を指すのでしょうか。
この薬王菩薩(一切衆生喜見菩薩)の捨身供養は、日蓮聖人も信仰の模範として注目するところで、「身命を仏にまいらせる」「法華経に命を捨つる」「この身を法華経にかうる」ものであると受けとめられております。
この「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自らの身命も惜しまない」薬王菩薩のすがた。ここに一貫するこころが、“こころざし(志)”であり、“真心”からの供養の尊さが強調されています。薬王菩薩の捨身供養は、仏さまと法華経への深い感謝の気持ちからその恩に何とかして報いたいという“真心”によって起こったものであり、これこそが久遠のお釈迦さまのこころに叶った“如法(にょほう)”の供養であります。
この“真心”をもって日々の生活を送っていくことが、私たちが仏となる道であり、ここに第16章如来寿量品に説かれた大切な信仰の心得が具体的に示されているのです*2*3。
注釈
*1 文字どおり、「焼身供養(しょうしんくよう)」とも呼ばれます。
*2 私たちがお唱えする「南無妙法蓮華経」の“南無”とはインドのことばで、「帰依(きえ)・帰命(きみょう)」と訳されますが、その意味はまさにこの“こころざし”“真心”であります。
*3 本章ではここからさらに、一切衆生喜見菩薩が日月浄明徳仏の入滅後、その舎利を供養するために、両臂(ひじ)を燃(とも)し身をもって供養されたこと、両臂なき師のすがたをみて悲歎する弟子たちをなぐさめて、「私の成仏が虚(むな)しからざれば、両臂もとのごとくならん」と誓うと、不思議にもとのとおりに蘇生回復した現証を見、みな大いに歓喜したと、真心からの供養とその功徳の大きさが説かれています。
また続けて、十の喩(たと)えをあげて法華経が最もすぐれた教えであること、この法華経を受持する者の功徳もはかりしれないことが強調されていきます。



