ざっくり納得法華経のすべて

第9章

弟子たちの成仏

授学無学人記品

【じゅがくむがくにんきほん】

1200もの多くの弟子たちに、成仏の保証である「記別(きべつ)」が与えられたことを目の当たりにした阿難(あなん)、羅睺羅(らごら)は、自分たちもみなとともに“仏となりたい”という切なる願いを起こします。

この心の底からこみ上げてくる想いを心待ちにしていたお釈迦さまは、阿難、羅睺羅をはじめとする2000人の弟子たちに、成仏の保証〈記別〉を授けていきます。

これが、第9章授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)であり、すべての弟子たちを仏となすために、第2章方便品から繰り返し説かれてきたお釈迦さまの教え〈「三周説法」〉が、ここに結実することとなります。

“仏となる”という保証
まず、お釈迦さまのお側にいつもお仕えして多くの教えを聞き、その教えを護(まも)ってきた“多聞(たもん)第一”と称される阿難に対して、未来に「山海慧自在通王(せんがいえじざいつうおう)仏」となるという成仏の保証が与えられ、「常立勝幡(じょうりゅうしょうばん)」という清浄な国土を築くことが説かれます。

阿難は、この「授記(じゅき)」と「国土の荘厳」を聞き、願うところすべてが満足し、心から大いに歓喜するとともに、過去から諸仏のもとで聞いてきた教えと自らがかつて立てた誓願をも思い出すことができました。

次に、お釈迦さまの長子であり、人知れず修行に精進し“密行(みつぎょう)第一”と称された羅睺羅に対して「蹈七宝華(とうしっぽうけ)如来」となるという授記がなされ、さらに2000人の弟子たちには、みな同じく「宝相(ほうそう)如来」となることが明かされます。

切なる願いと喜び
これらの授記は、阿難・羅睺羅の私たちも“仏となりたい”という切なる願いに、お釈迦さまが応えられたものであり、阿難・羅睺羅とともに授記された2000人の仏弟子*1たち も、浄らかな心から同じ願いを起こしています。

「その意(こころ)柔軟(にゅうなん)に寂然(じゃくねん)清浄にして一心に仏を観(み)たてまつる」*2

この弟子たちの“まごころ”を確認されたお釈迦さまは授記をされ、それを受けた弟子たちは、「心に歓喜充満せること、甘露(かんろ)*3もって濯(そそ)がるるが如し」と、躍り上がってその喜びを表現しています。

“まごころ”から仏となりたいという心を起こすことが、仏の道へと入る条件であり、その願いが叶って心の底から喜び感謝する、まさに時が至って機が熟し、お釈迦さまの大慈悲のこころから始まった化導がここに実を結んだのでした*4。

お釈迦さまの弟子たちの成仏
これまでみてきたように、法華経以前の教えでは、決して仏となることはできないと嫌われてきた弟子たち〈「永不成仏(ようふじょうぶつ)」とされた二乗〉に、法華経においてはじめて救いの道・仏となる道が開かれました。この弟子たちにとって、法華経はまさに命の恩人であります。

自身成仏の大恩の教えであることから、何としてもこの法華経へ恩返しをしたいという報恩の心が芽生え、そして、その誓いを立て、現実に働いていくこととなります。

仏の道に入り、仏となってこそ、いよいよその真価が発揮され、仏となってお釈迦さまのこころを継いでいくのです。

第2章方便品からこの第9章授学無学人記品までは、お釈迦さまの直弟子〈「在世の衆生(しゅじょう)」〉を対象として教えが説かれてきましたが、この法華経への恩返しは、お釈迦さま入滅後、法華経を信仰する者に対する守護するという形で実現していきます。

日蓮聖人は、お釈迦さまが入滅した後の衆生〈「滅後の衆生」〉を対象として展開していく第10章法師品(ほっしほん)以降の教えから振り返って見ると、方便品から授学無学人記品を含む法華経のすべてが、お釈迦さま滅後、特に末法の衆生のために説かれたものとなることを強調されており*5、お釈迦さまの弟子たちの成仏も、末法の衆生と直接関わる重要な意味を認められています*6。

お釈迦さまの大慈悲のまなざしは、末法という現代を生きる私たちに向けられており、常に私たちのために説かれた教えであることを実感し、法華経を拝していくことが、何よりも大切な姿勢として求められているのです。

 

注釈

*1 この章のタイトルにもあるように、ここでは「学・無学」の2000人の弟子たちに授記がなされます。「学」とは仏道修行を指しており、「学〈有学〉」とはまだ修学すべきものが残されている者、「無学」とはもはや修学すべきものが無い段階の者を指しています。

*2 この心は、私たちがよく拝読する「お自我偈(じがげ)」に説かれた「質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山」の「質直(しちじき)にして意(こころ)柔軟(にゅうなん)に、一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」を彷彿とさせるものでしょう。「すなおに、まじめに、しんけんに」あること、ここに、私たちが仏となる極意が記されているのです。

*3 「甘露」とは、「不死」とも訳される、苦しみや悩みを癒やし、寿命を与える妙薬で、自らの喜びの大きさをこのように譬えられたのでした。

*4 「あなたも仏となることができる」という、授記に対する態度の違いを「第20章常不軽菩薩品」の四衆と比べてみましょう。すなおに喜びをもって受け入れることができることは、非常にありがたいことなのです。

*5 『法華取要抄』昭和定本日蓮聖人遺文812頁等

*6 『開目抄』以降、この弟子たちの成仏〈「二乗作仏(にじょうさぶつ)」〉が、末法の法華経の行者と密接に関わりを持つことが強調されていきます。

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