ゼロから学ぶ日蓮聖人の教え

『立正安国論』に添えられた述懐

安国論奥書

【あんこくろんおくがき】

文応(ぶんおう)元年〈1260〉、日蓮聖人は『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)〈以下『安国論』と表記〉を鎌倉幕府に提出し、「正しい仏法に背いた政治をこのまま続けていれば、他国からの侵略を受けてしまうだろう」〈他国侵逼難(たこくしんぴつなん)〉と警告を発しました。

この『安国論』は幕府に黙殺されたまま数年が過ぎますが、文永(ぶんえい)五年〈1268〉、事態は一変します。当時猛威を振るっていた元*1から日本へ、隷属をせまる国書が届いたのです。まさに、『安国論』での警告が的中したのでした。

これを受けて聖人は、今度こそ『安国論』を採用するよう、幕府を含めた関係各所に働きかけを開始します。添え状とともに『安国論』を幕府に再提出し〈『安国論副状』(あんこくろんそえじょう)〉、『安国論』の解説文である『安国論御勘由来』(あんこくろんごかんゆらい)を執筆し、要人・宿屋左衛門入道(やどやさえもんにゅうどう)にも書状を送りました〈『宿屋入道再御状』(やどやにゅうどうさいごじょう)〉。

こうしたロビー活動と並行して、聖人は自ら、そしてお弟子たちにも命じて、『安国論』の写しを作成してゆきます。中でも文永六年〈1269〉の十二月八日に聖人ご自身が筆をふるわれた写本は、最もよく知られています。この写本は当初、地頭の矢木式部大夫胤家(やぎしきぶのたいふたねいえ)に授けられましたが、現在では中山法華経寺が所蔵しており、国宝に指定されております。聖人の著作集として最も権威のある『昭和定本 日蓮聖人遺文』に掲載されている『安国論』の文も、この写本を底本としています。

この文永六年〈1269〉十二月八日の写本の末尾に書き添えられていた文章が、今回取り上げる『安国論奥書』です。ここで聖人は、「この『安国論』は文応元年に発表したものである。ただし、その構想は正嘉年間から練っていたものだ」と前置きした上で、『安国論』執筆をめぐる一連の経緯を説明しておられます。正嘉(しょうか)元年〈1257〉の鎌倉大地震をきっかけに同書を構想し、文応元年〈1260〉に完成して幕府に提出したこと。文永五年〈1268〉に元から国書が届き、他国侵逼難が現実のものとなったこと。こうした経緯を振り返りながら、「この『安国論』は予言書〈徴(しるし)ある文〉である。しかし、こうして予言が的中したのは、私の力ではない。『法華経』の真実の経文が、この予言を的中させたのだ」と結んでおられます。

 

注釈

*1
中国王朝の一つ。モンゴル帝国第5代の世祖フビライが建てた国。南宋を滅ぼし、高麗・吐蕃(とばん)を降し、安南・ビルマ・タイなどを服属させ、東アジアの大帝国を建設。都は大都(北京)。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。大元〈1271-1368〉〈広辞苑第6版参照〉

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