ゼロから学ぶ日蓮聖人の教え

「現世安穏(げんぜあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」の祈り

金吾殿御返事

【きんごどのごへんじ】

この御遺文は、日蓮聖人が開催なさっていた「大師講」にまつわる書状で、有力信者であった太田乗明(おおたじょうみょう)*1に宛てられています。

「大師講」とは、天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)〈538-597〉の命日である11月24日に開かれる講会で、日本では伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)〈766/767-822〉が始めました。智顗は中国隋代、仏教史上でも初めてとなる『妙法蓮華経』〈以下『法華経』と略記〉中心の宗派である天台宗を開き、『摩訶止観(まかしかん)』などの重要な著作を残しました。智顗の天台宗は、日本では最澄によって一宗として広められました。最澄が建立した比叡山延暦寺で学ばれ、天台宗の教義を基盤にご自身の思想を確立された日蓮聖人は、智顗を先師として高く評価され、インドの釈尊・中国の智顗・日本の最澄とご自身を「三国四師」と位置づけ、『法華経』弘通の正統の系譜としました。

本状は、この「大師講」のために金銭の援助をした太田乗明への御礼状です。御礼につづいて聖人は、これから『法華経』の教えが広まるか否かは、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』での「自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)」と「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)」の予言が的中するか否かにかかっている、と述べておられます。なお、本状が執筆されたのは文永七年〈1270〉でしたが、他国侵逼難はすでに文永五年〈1268〉に蒙古から属国になるよう迫る国書が届いたことで実現しており、自界叛逆難も数年後の文永九年〈1272〉に起きた北条家の内紛である「二月騒動」によって実現を見ます。

そして聖人は日本の前途を憂い、天台宗総本山の比叡山も動揺していること、自分は死罪をも恐れずに諫暁を各所に対して続けていること、すでに年齢も五十歳となり余命いくばくもないが、『法華経』のために身を捧げたい旨などを述べられ、雪山童子(せっせんどうじ)〈『涅槃経』に登場する釈尊の前身。聞法のために羅刹に身をささげた〉や薬王菩薩(やくおうぼさつ)〈『法華経』に登場する菩薩。仏への供養のため焼身した〉、仙預(せんよ)〈『涅槃経』に登場する王。仏教の破壊者たちを取り締まった〉や有得(うとく)〈有徳王。『涅槃経』に登場する王。仏僧を援護して戦死した〉といった『法華経』『涅槃経』の登場人物たちを手本として挙げておられます。

さらに書状の余白には「来年は元日から智顗の『摩訶止観』の第五巻を読み始めて〈現世安穏・後生善処〉の祈請をしたいので、『摩訶止観』を送付してほしい」と依頼した追伸があります。なお、『摩訶止観』第五巻の正修止観章(しょうしゅしかんしょう)には天台仏教の極意とされる「一念三千(いちねんさんぜん)」の論が説かれており、その文を日蓮聖人は主著『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』の冒頭に引用しておられます。また「現世安穏・後生善処」〈現世では安穏に、死後は善い場所に生まれ変わる〉との文句は、『法華経』薬草喩品第五(やくそうゆほんだいご)に出てくる、『法華経』の功徳を表した一文です。

 

注釈

*1
1222-1283。太田とも表記。大田左衛門尉乗明(おおたさえもんのじょうのりあき)のことで、曾谷入道(そやにゅうどう)、金原法橋(かなはらほっきょう)とともに、下総における日蓮聖人の有力檀越の一人。富木常忍(ときじょうにん)と同様に早くから外護者となった。日蓮聖人からは大田入道、大田左衛門尉、大田金吾、乗明上人、乗明聖人、乗明法師妙日(じょうみょうほっしみょうにち)などと呼称され、漢文体で教義的に深い内容をもった書状を与えられている。病痛に悩む大田氏に対して聖人は、現在の病は過去の謗法罪の報いを軽く受けているものだとして法華信仰の堅固なることを勧奨され、やがて大田氏は病を克服している。〈日蓮宗電子聖典参照〉

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