ゼロから学ぶ日蓮聖人の教え

対面でも臆することなく

故最明寺入道見参御書

【こさいみょうじにゅうどうけんざんごしょ】

この『故最明寺入道見参御書』は、わずか数十字程度の断片しか現存しておりません。「故・最明寺入道殿に謁見した時、人々に古くからの寺院への信心を捨てさせるのは天魔のしわざであると忠告した」との内容であることから、『故最明寺入道見参御書』と呼ばれています。

わずか数十字でありながら、この遺文は多くのことを伝えてくれます。まず最明寺入道殿とは、日蓮聖人が『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)を奏上した相手である、鎌倉幕府の第五代執権・北条時頼〈1227-1263〉のことです。康元(こうげん)元年〈1256〉に引退し、自身が創建した建長寺内にある最明寺に隠居したことから、最明寺入道と呼ばれるようになりました〈ただし彼は隠居後も政治的権力を持ち続けており、鎌倉きっての影の権力者でした〉。

その建長寺の開山に据えられていたのが、宋から来日していた禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)〈1213-1278〉です。最明寺入道はこの蘭渓道隆に深く帰依し、禅宗を支援しました。禅宗は念仏宗とならんで鎌倉時代に急速に勢力を伸ばした宗派ですが、その背景にはこうした政治権力からの後押しがあったのです。

しかし、そうした新興勢力が伸長する一方で、天台宗・真言宗を中心とする旧来の仏教勢力がないがしろにされたために社会秩序に混乱が生じている、と日蓮聖人はお考えになりました。その旨を聖人は『立正安国論』にまとめて最明寺入道に提出し、また実際に謁見して「古くからの寺院、つまり旧来の仏教をないがしろにしてはいけません」と進言なさったのでした。新興の禅宗を贔屓していた最明寺入道にとっては、さぞ耳の痛い忠告であったことでしょう。しかしこの「影の権力者」に対し、聖人は文面でも対面でも臆することなく物申されたのでした。こうした聖人の堂々たる態度を伝える遺文が『故最明寺入道見参御書』であり、文永(ぶんえい)五年〈1268〉になされた『立正安国論』の再度の上奏をきっかけに著された遺文『安国論副状』(あんこくろんそえじょう) 『安国論御勘由来』(あんこくろんごかんゆらい) 『宿屋入道再御状』(やどやにゅうどうさいごじょう) 『安国論奥書』(あんこくろんおくがき)に連なって、文永六年〈1269〉頃に著されたと推定されています。

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